かつて村々を訪ね歩き、歌や語りを聞かせた芸能者たちがいた。瞽女唄(ごぜうた)、浄瑠璃(じょろり)に祭文語(さいもんがた)り……。いまは直接知る人も少なくなった、声による芸能の歴史をたどり、それらが近代以降に失われていったことの意味を問い直した一冊だ。
歌や語りが持つ力に気づかされたのは、2000年に中央アジアを旅した時のこと。自身と同じ朝鮮半島にルーツがある高麗人(コリョサラム)と呼ばれる人びとが、日本の明治期の唱歌「美しき天然」の旋律に朝鮮の言葉の歌詞をのせ、望郷の思いを歌い継いでいるのを聴いた。生きるために朝鮮半島を離れた彼らは、やがてスターリンによって極東ソ連から中央アジアの荒野へ追放されるという苦難の道のりをたどっていた。
「文字による歴史は権力を持つ人間によってつくられる。それに対して、歌でしか運ぶことのできない記憶、文字に慣れきった人間には見えない世界があるのだと知りました」
日本の瞽女唄、祭文語りなどの芸能も、名もなき人びとの記憶を声によって伝えてきた。旅する芸能者が自在に歌い変え、語り変えることで、それぞれの土地に結び付いた記憶や物語を宿す器となってきたとも。
やがて近代の訪れとともに、姿を消していった芸能者たち。それは「国家も民族も伝統も、中心はただ一つだけあればよいという世界観」の浸透と表裏一体の出来事だったとみる。「風土に根ざした多様な声で語られていたはずの私たちの記憶や想像力まで、統一されてしまったのが近代という時代だったのでは」
説経祭文語りの渡部八太夫さんとユニットを組み、小さな集会で披露している。「声の届く範囲で集まり、声を分かち合う場を開く。ささやかでも、誰かの大きな声にのみ込まれてしまうことへの抵抗につながるはずです」 (文・写真 上原佳久)=朝日新聞2023年3月18日掲載