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「川のほとりに立つ者は」寺地はるなさんインタビュー 他人を「わかろうとする」「わかった気になる」落とし穴

寺地はるなさん=花田和奈撮影

我が子でさえもわからない

――本作で2023年本屋大賞にノミネートされています。現在のお気持ちは。

 嬉しいというよりは、ホッとしています。一昨年12位、昨年11位と、いつも惜しいところで止まって、期待してくださった皆さんに申し訳なかったので……。それから、この小説は、人間のいいところと悪いところを等分に書いたつもりで、もっと好き嫌いが分かれると思っていました。それでもいい、という思いで書いたのですが、こうしてノミネートするほど広く読まれたのは有難かったですね。

――この小説は、意識不明の重体となった恋人・松木の本当の姿を清瀬が知ろうとする物語。親しい人であっても、その中身を完全に知ることはできないことが繰り返し描かれます。これは寺地さんの実感ですか。

 そうですね。自分の子どもがいま小学生なんですけれど、私は「おとなしくて引っ込み思案な子」だと捉えていたんですね。でも学校の先生から「強情なところもあるんですね」と聞いたりして、我が子すら正しく捉えられていないとハッとしました。私自身、小説を書くようになって、作品のイメージからか「優しい人に違いない」「食べることが好きに違いない」とか、会ったこともない人に言われて戸惑うことも……。

 「わかった」って思った瞬間に、それ以上わかろうとする気持ちを止めてしまう怖さがありますよね。たとえば、「この人は優しい人だ」と理解したとして、そうではない新たな一面が見えても、「いや、でもこの人は優しい人のはず」っていう最初の理解に自分の気持ちを合わせてしまう。逆もまた然り。どうしてもバイアスがかかる。フラットに物事を見るって、ものすごく難しいことだと思います。

障害の名前でジャッジされる怖さ

――物語は「ディスレクシア」が大きなカギとして描かれます。知的には標準でありながら、読み書きのみに困難をきたす学習障害のひとつですが、これもまた、人に理解されにくい障害ですね。

 じつは、ディスレクシアは私にとって切実な問題でした。子どもが小学生になりたての頃、字がうまく書けなかったんです。どうしてだろう、もっと早く教えるべきだったか、と調べるうちに、この障害を知りました。

 これまでディスレクシアを取り上げたフィクションでは、字が全部黒い点に見えるとか、ぐにゃぐにゃに見えるとか、割と極端な例で描かれていたんですね。でも、みんなそうだとは限らない。友人にも、小学校で習うレベルの漢字が書けないとか、ひらがなは書けるけどアルファベットはダメっていう人もいたりして、困りごとはばらばら。そもそも、私自身もパニックになると鏡文字を書いたり、2つの漢字が合体したような気持ち悪い漢字を生み出したりするんですよ。サイン色紙に相手の名前を書くとき、耳で聞いただけでは書けなくて、スマホで調べていたら、「作家さんのくせに」と言われたこともあって……。それもまた決めつけなんですよね。

 障害とはこういうもの、病気とはこういうもの、と学んだとしても、目の前の相手を知るためには一からのコミュニケーションをしなければいけないと感じました。それは、家族であっても、だれを相手にするときにも変わらないのだと。

――作中ではADHD(注意欠如・多動性障害)をもつ人物も登場します。その人は周囲に「障害がある人」としか見られないことを恐れ、そのことを隠しています。一方、周囲に障害を理解してもらうことで、生きやすくなる場合もありますよね。

 なんだろな。何を「これが正解です」と定めても、どっかで齟齬が起こる。だからこの本では、「この人はこうでした」っていう、ただそれだけに留めようと思いました。繰り返しになりますが、目の前の人の個々のケースで考えていかないといけないことなんじゃないかな。私も含め。

――最近では「うちの夫はADHDだから」「私、たぶん発達障害だからさ」と、正式な診断なく、カジュアルな扱いで語られる場面もよく目にします。特性のひとつとして扱うことは間違いじゃないのに、何かモヤモヤします。

 そうですね。一時、空気が読めない人を「アスペ(アスペルガー症候群)じゃない?」みたいな言い方することも、ありましたよね。そうやって平場で語ることで、本当に困っている人に対して「俺だって片づけられないよ。それは甘えなんじゃないの」ってなるのは違いますよね。一般化することで、努力次第でどうにでもなることのように扱われてしまう。これも、「わかった気になる」一つの弊害かもしれません。

――清瀬はADHDの人に対して「しりぬぐいをさせられている」という気持ちを抱いています。一方、松木はディスレクシアである「いっちゃん」という人物に対して、積極的にその困りごとを解消しようとします。両者の違いはどこにあると思いますか。

 それぞれの関係性の違いは大きいと思います。そこは小説を読んでいただくとして、もう一つの違いは、清瀬の余裕のなさ。コロナ禍でカフェの店長に抜擢された清瀬は本当に余裕がない。余裕がないって、視野が狭くなることですよね。誰かが困っていること自体に気づけないし、その背景にやむを得ない事情があるかも、という可能性も見えない。これは育児をしていて私自身、痛感していることです。

親はみんな「毒親」です

――この小説には、いっちゃんの母親も登場します。彼女は「字なんか書けなくても生きていける」と言いますが、一方でその考えが、いっちゃんの努力を阻んでいます。愛情のかけ方って難しいですね。寺地さんご自身も母親ですが、母の難しさを感じていますか。

 それはもう、むちゃくちゃ感じています。子どもが入学したての頃は、漢字の書き取りに1ページ1時間以上かけていたんです。それを私は隣でずっと見ていました。するとこっちも疲れてイライラをぶつけてしまったり。「頑張ろうね」みたいな声かけも今思うとよくなかったかなって思います。私の子育ては、失敗と成功でいえば、失敗8割くらいです。

 あと「謙遜」! 他人から「〇〇ちゃん、すごいですね~」って褒められると、「いや、そんなことないですよ~」って言ってしまう。そうでしょ、うちの子最高でしょ!って言えばいいのにね。また、そういうのって絶対本人が聞いていて傷ついているんですよね。どうせわかんないだろ、とか思っちゃいけない。最近ようやく「褒め返し」の術に気づきました。褒められたら「ありがとうございます、△△ちゃんもココがすてきですよね」って。

 親ってどう頑張っても全員毒なんだと思います。でもね、最近、あんまり嫌われないように接するのも違うのかなって。親が嫌な役を引き受けて、それに反発することで、子の自我が芽生えたり、自分の考えを持ったりすることもあると思うんです。

――ウゥ、ほめても、けなしても……親って難しい!

 ね、親ムズッ! ってなりますよね(笑)。あ、でも親の育て方がすべてだと思い込むのも傲慢かなと思います。私の知り合いに、親との関係がうまくいっていないけど、自己肯定感をちゃんと持っている人がいて。この小説の松木もそうなんですけど。その人が、「俺は親に愛されていないことははっきりわかっていた。だから自分が自分を愛せなくなったらおしまいだ」って言ったんです。それを聞いたとき、驚きもしたけれど、同時に気が楽になって。親が与えるものだけがすべてじゃない。実際には子どもはいろんな関わりの中で育っていくんだなって。気負わずにやっていきましょう(笑)。

ブーメランのように返ってくる小説を

――清瀬はあたたかな家庭で育ち、友人にも恵まれた人として描かれます。恵まれているがゆえの傲慢さやいたらなさも描かれますが、同時に、「苦労したことのない人間にだって、意思があり、決意がある」とも書かれます。私はここにホッとしました。恵まれた主人公って、あまりないパターンですよね。

 じつは、清瀬のような人のほうが声なき多数派なのではと思います。でも、「恵まれているあなたにわかるわけない」「お前は恵まれているんだ、反省しろ」ってなると、分断が生まれてしまう。人は良くも悪くも自分の持ってるもので勝負するしかない。それに、恵まれている人にしか救えないこともあると思う。この物語では、清瀬は責められますが、そこを素直に反省し、挽回しようと向かっていけるのは、恵まれているからこそなんですよね。

――清瀬もしかり、寺地さんの小説には、完全な悪も完全な善も描かれません。

 そうありたいと思っています。たとえば、よく感想で「松木といっちゃんの関係がすてきでした」といただくんですが、私は、松木は100%善意でいっちゃんを手助けしていたのかなあって思うんです。優越感や、〈役立っている俺〉という存在意義を得ようとしていたのかもしれない。だれかを支えたい、守りたいって、やっぱりどこか一方的な感情なんですよね。人間関係って必ずしもきれいなものだけでできているわけじゃない。どんな関係でも歪みはあって、でもだからといって「あんたらのは友情じゃない」と決めつけるのも違う。そういう有り様をそのままに書きたい。

 すごく身勝手な話なんですけど、私にとって小説はわからないものに対するアプローチなんです。

――あ、それ、『生皮』のインタビューで井上荒野さんもおっしゃってました。

 本当ですか⁉ 私、井上さんの大ファンで、今心臓が跳ね上がってます! 

 私の場合、小説を書くときは、ぼやっと見えている誰かがいて、どうしてこういうことをするに至ったのかと想像することから始まるんですね。わからないまま書いて、結局答えも出ないんですよ。単行本にする前のゲラチェックの段階で、掴んでいたはずの答えが変わったりもする。なんなら読んだ人に教えてほしいくらいです。

――この小説をどんなふうに受け取ってほしいですか。

 ブーメランのように刺さってくれたら、一番うれしいです。たとえば、小説の中に自分に似た人を見つけるってよくあると思うんですけど、「この人やだ!」って最初は思っていた登場人物が、最後まで読んだときに「自分じゃん……」って戻ってきたらいいなって思います。