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「開墾地」書評 言葉と自己の間で揺らぐ越境者

評者: 稲泉連 / 朝⽇新聞掲載:2023年04月01日
開墾地 著者:グレゴリー・ケズナジャット 出版社:講談社 ジャンル:小説

ISBN: 9784065311684
発売⽇: 2023/01/26
サイズ: 20cm/90p

「開墾地」 [著]グレゴリー・ケズナジャット

 本書は英語を母語とし、日本語で小説を描く著者による「言葉」とアイデンティティの揺らぎをめぐる物語だ。
 主人公のラッセルは、イラン人の養父とアメリカ人の母を持つ二十代の若者。日本の大学で学ぶ彼は、サウスカロライナの実家に帰ったある日、「Katy did,Katy didn’t」というキリギリスの声で目を覚ます。息苦しいほどの湿気と時差ぼけの頭痛のなか、いくつかの言語によって風景に意味が与えられ、ぼんやりとしていた世界にピントが少しずつ合わされていく――。冒頭で丹念に描かれるそんな心のあり様が、以後、物語の通奏低音として響き続けているように感じた。
 父が修理をしながら暮らす古い家の庭には、かつて日本から持ち込まれた葛の葉が海のように繁茂して広がっていた。ラッセルの裡(うち)にある記憶を覆い尽くすかのように、どこまでも生い茂るその葛の描写のなんと濃密なことだろう。
 幼い頃に庭をさまよった記憶や母が家を出て行った日のこと、父がイランにしばらく帰郷したときの複雑な思い……。父が口ずさむ異国の歌の響きに心奪われてきたラッセルは、幼い頃の記憶を回想しながら、イランからこの地に来たその胸の裡に思いを馳(は)せる。ひとつの「言語」だけでは捉えきれない心の機微が、葛の広がるイメージと重ねられる様子に惹(ひ)きつけられる。
 ラッセルは母語という檻(おり)から抜け出し、自らの中にわだかまる世界をあらためて編み直したいと願う。
 〈英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった〉
 そのようにして、失われそうになる自己を見つめようとする彼の姿が胸に迫った。言葉と自己の間で揺らぐ若者の姿を通して、母語から逃れえない越境者の葛藤を鮮やかに描き出した作品だ。
    ◇
Gregory Khezrnejat 1984年、米国生まれ。法政大准教授。本作は芥川賞候補に。著書に『鴨川ランナー』。