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【岐阜編】時を超えた恋愛の多発地帯 文芸評論家・斎藤美奈子

『夜明け前』の舞台となった中山道の馬籠宿=岐阜県中津川市、全日写連・加藤徹さん撮影

 岐阜県を代表する作品といえば、やはりこれ。島崎藤村夜明け前』(1935年/岩波文庫など)だろう。舞台は長野県に隣接した中山道の馬籠宿(中津川市)。〈木曾路はすべて山の中である〉という書き出しはあまりにも有名だ。現地を歩くとこの一文が実感できる。

 とはいえ全4巻を読破するのは至難の業だ。読み通すには、物語が大きく動く第4巻(第2部の下)から読み始めて最初に戻る、少々ズルい方法を推奨したい。ひと言でいうとこれは地方から見た明治維新の裏面史だ。維新に夢をつなぐも裏切られた主人公・青山半蔵(モデルは作者の父)の苦悩は地方経済が疲弊している21世紀の現在とも響き合う。藤村で唯一読むべき作品である。

 さて、山深きこの県は、なぜだか恋愛小説の多発地帯である。

 舟橋聖一白い魔魚』(1956年/新潮文庫)は『太陽の季節』と同時代の朝日新聞連載小説。拝金主義の時代を背景にした女性版アプレゲール(戦後世代)小説だ。

 主人公の綾瀬竜子は、岐阜市の老舗紙問屋の娘である。東京の大学で青春を謳歌(おうか)していたが、実家が倒産寸前との報で帰省してみると、債権者のひとりが竜子と結婚したがっているという。〈それじゃまるで、身売りじゃないの〉〈せっかくですけれど、真平だわ〉。彼女には密(ひそ)かに思っている人がいたのである。

 要はラブコメだけれども、ズケズケ物をいう竜子といい、若いツバメを手なずけている女社長・篠宮紫乃といい、家に縛られた古い女性観が一掃される。当時の女性読者は快哉(かいさい)を叫んだのではなかろうか。

 高山市に住む専業主婦と、ここに単身赴任してきた妻子のいる土建会社の現場監督。高樹のぶ子飛水』(2010年/講談社文庫)は平凡な中年男女の恋愛を、ゾクッとするようなタッチで描いている。

 2人は家庭を捨てて一緒に暮らそうと決意するが、その矢先に起こった飛騨川バス転落事故(1968年)。104人の犠牲者を出したこの事故で男も命を落とすのである。

 それでも2人の恋は終わらなかった。〈高山本線を行きつ戻りつ、何度往復したことだろう、このようにただ外の景色を眺めながら〉

 私見では『マディソン郡の橋』をしのぐ世界一美しい不倫小説。ラストシーンで泣くよ、たぶん。

 一転、舞台は今も壮麗な石垣が残る岩村城(恵那市)。岩井三四二霧の城』(2011年/実業之日本社文庫)はこの城を舞台にした戦国のロミオとジュリエットである。

 岩村は信濃と美濃、武田家と織田家の境界にある。嫁して約20年。城主である夫を亡くしたばかりのおつやは、武田の城攻めで絶体絶命のピンチに立たされていた。

 武田方の将・秋山善右衛門は一計を案じる。〈なんとか後家どのに書状をとどけたい。できぬかな。ひそかにな〉。それはおつやへの結婚の申し入れだった。戦わずして勝つ奇策のはずだったが、もう若くはないこの2人、本気で互いを好きになってしまうのだ。城郭ファンにもおすすめの戦国ロマンである。

 そしてこちらは青春SFファンタジー。新海誠君の名は。』(2016年/角川つばさ文庫)は同名のアニメーションの小説版だ。

 東京に住む男子高校生・瀧と、岐阜県の糸守町(モデルは飛騨地方)に住む女子高校生・三葉は、互いの身体が時々入れ替わることに気づいていた。〈俺たちは入れ替わりながら、同時に特別につながっていたのだ〉という特殊な状況での会えない恋。糸守町の消滅の危機と時空を超えた2人の切ない思いが交錯する。

 小島信夫美濃』(1981年/講談社文芸文庫)は、作者(岐阜市出身)の分身らしき作家が旧知の詩人に年譜の作成を依頼するところからはじまる。〈島崎藤村が「夜明け前」という、家の歴史というか、自伝というか、傑作をのこしている。作家は晩年に入れば、自伝を書いておいた方がいい〉と考えたのだ。

 しかし、わかるのはそこまでで、あとはもう完全にカオス。岐阜について何か語ってはいるが、常人の日本語理解力を超越した世界。説明は不可能だ。一生に一度は味わいたい小島信夫体験である。=朝日新聞2023年4月1日掲載