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大江作品の試み 一人の人生、大きな物語の中に 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年4月〉

絵・黒田潔

 月刊の文芸誌併せて四誌が大江健三郎を追悼する特集を組んでいる。プリズムのように大江像が立ち上がる印象がある。「群像」五月号には批評家の柄谷行人が追悼文を寄せ、訃報(ふほう)に触れた時に感じたものを「『近代文学』の終焉(しゅうえん)である」と分析した。自分もまたそう思う。が、だから大江作品に学ばないという手はないし、終わりの向こう側にあるものを一から始めないという手もない。私見ではある時期からの大江作品は「個人的な痛みを大きな社会性に換える」試みで、要するに小ささを大きさ、巨大さに変換していた。それを「近代文学」とは異なる枠組みに応用するとはどういうことか?

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 津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版)は五部構成で、一九八一年に物語がスタートして二〇二一年に終わり、物事が十年刻みで語られる。理佐と律という姉妹がいて、第一話では姉が十八歳、妹は八歳で、この二人が母親から離れて独立する。姉妹の年の差が十歳であるというのが要点で、第一話では十八歳であった理佐の視点から語られているのだけれども、第二話ではやはり十八歳になった律の視点が前に出る。だから冒頭の二部に関して言えば「十八歳である女性の、個人的な出来事」のようなものがそこにあるわけだ。しかしそれが二〇〇一年、二〇一一年と積み重なるとどうか?彼女たちを包んでいる社会が大きな変動の内側にあるということが、うっすら実感される。そしてここがいちばん肝なのだが、書名にあるネネという存在、これが実は鳥で、インコ科のヨウムなのであって、ヨウムは人間の三歳児程度の知性を持ち、物真似(ものまね)が得意で、喋(しゃべ)る。その平均寿命は五十年である。物語がスタートした一九八一年にネネはだいたい十歳で、普通に考えたら余命は四十年なのであって、読者は四十年後にこの愛らしい、魅力的な鳥が「死」を迎えるのだとうっすら把握している。本書は十年刻みの物語を、一つひとつは「小さいもの」として提出しながら、ネネという魅力的な一羽を物語そのものの見張り役とすることで「いつかは終わってしまう『半世紀』という時間」の内側に流し込んでいる。ここには(大江作品のような)大きな社会性はない。しかし、血縁を離れて築きあげられようとする本物の「社会」が描かれている。一人の人間が自立するために必要なのは、周囲からの「支え」なのだという逆説を、この小説は感動的に物語っている。

 同じように半世紀を、複数の人物の視点から、しかし逆行させて語ったのが吉川トリコ『あわのまにまに』(KADOKAWA)で、いまから六年後の二〇二九年にその一話めが始まり、最終話は一九七九年の物語である。ここでは姉のいのりと妹の操という父親の異なる姉妹が軸になってストーリーが展開するのだけれども、途中この軸が非常に姉妹的な親友の女二人にシフトする。語り手は一話ごとに変わって、この「次は誰が語るのか?」が中盤まで予想を裏切りつづけてスリリングなのだが、面白いのは「人間には個性(キャラ)がある」と信じ切れているところで、だから語り口は始終あけすけであり、なのに作品全体には秘密がたっぷり含まれている。その秘密の大きさが、小さな物語を徹底的に巨大さの予感に浸(ひた)している。

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 「文芸」夏号に載った佐藤究「幽玄F」は物語を現代よりも十年余後まで飛ばす。しかし主人公は二〇〇〇年に生まれていて、だからやはり数十年の「時間」が見える。三島由紀夫「豊饒(ほうじょう)の海」四部作を踏まえるのだが(主人公の名前等がすでにそうだ)、あの四部作が「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」と四部作全体の副主人公が思うところで終わる点を、その空虚さは「近代的」な空虚さなのだ、現代以降の日本においては人間に個性(キャラ)があると信じるほうがある意味で空虚で、実は近代の空虚から無限のほうへ、真の幽玄へと接続可能なのだと転覆させた。こんな幽玄へのアクセスは見たことがない。

 タン・トゥアンエン『夕霧花園』(宮崎一郎訳、彩流社)は日本の戦争犯罪を中心に据えて、そこからロマンスやミステリーに転換させ、このことによって、日本の読者に――もしかしたら日本人のみに――「あなたは小さな物語(人生)を生きている。だけれども本当は、大きな物語の中にずっといるのだ」と訴える。こうした転覆は、おもに読書体験にしか内包されない。=朝日新聞2023年4月28日掲載