花と犬 千早茜

 五月といえば薔薇(ばら)だ。そう思うようになったのは東京にきてからで、近所の大きな公園に薔薇園があるからなのだった。

 春は環境的な変化も大きく、まだひんやりと寒く、心身ともに気を張っている。冬の延長で風邪にも注意している。そんな私は五月の陽気にさらされると急に体調不良になる。眩(まぶ)しすぎる、とよろよろして、昼間はどうもやる気が起きなくなる。

 二年前、東京に引っ越したばかりの頃もそうだった。転居で慌ただしかった春を過ぎ、五月に入った途端に気が抜けた。ぼんやりと近所を散歩しているときに出会ったのが薔薇だった。赤やピンクや黄、紫に白、色とりどりの薔薇が眩(まばゆ)い陽光の下で咲いていた。光を受けた花弁の色は目に食い込んでくるくらい鮮やかだった。心身がぱっちりと目覚めた気がした。

 それから、薔薇の頃は散歩に行くようになった。朝がいい。まだ花弁がひらきすぎてなくて、透明な朝露がぽろりとのっている薔薇を見つけると心躍る。色も良いけれど、香りも大事だ。とはいえ、香る薔薇は実はそう多くはない。あちこちの薔薇の茂みに鼻を近づけて中腰で移動する姿は滑稽だが、早朝なら人も少ない。今年はパパ・メイアンという薔薇がよく香っていた。ラズベリーと林檎(りんご)を混ぜて甘く高貴にしたような芳香にうっとりして、何度も嗅いでしまった。嗅いでいると、じゅわっと口の中が潤う。食べたいわけではない。香りに刺激されてなんらかの分泌が盛んになる心地がするのだ。

 ああ、素晴らしい薔薇だったと帰ろうとすると、散歩中の犬がこちらを見ていた。髭(ひげ)の紳士のようなシュナウザーだった。駆けてきた犬を撫(な)でると、柔らかな毛のわりにみっしりした体躯(たいく)をしていた。花と違い、温かかった。手に犬の感触を残したまま帰った。

 パパ・メイアンの香りは切ると二十四時間で消えてしまうらしい。薔薇が香る土と犬が駆ける庭。めずらしくそんなものが欲しくなった。=朝日新聞2023年5月10日