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骨太の人物評伝 時代や社会を鮮やかに照射 ジャーナリスト・青木理

 旧知のベテラン編集者がかつて口ぐせのように言っていた。ノンフィクションの華は事件と人物評伝だと。なるほど、およそあらゆる事件には人間の業のようなものが凝縮されていて、時代や社会の歪(ゆが)みがベッタリと張りついている。人物評伝の対象にしても、それが権力者であれ犯罪者であれ、さまざまな逸話に満ちた人物の実像を描きだす作業は、その人物が生きた時代や社会の深層も鮮やかに照射し、読む者の心を揺さぶる。

 だから先達の書き手はそれをテーマに取材、執筆を手がけ、数々の優れたノンフィクション作品が紡がれてきた。人物評伝でいえば私自身、井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々』に大きな影響を受けた。

 あらためて記すまでもなく、この国のメディアは先の大戦時、軍部ファッショの煽動(せんどう)役となる失敗を犯した。だが信濃毎日新聞の主筆だった悠々は軍部の専横と倒錯を敢然と「嗤(わら)い」、戦前・戦中のジャーナリズムにかすかながらも確かな「抵抗」の爪痕を残した。

 あれは高校時代のことだったと記憶しているが、私は岩波新書版の本作を夢中になって読み、ジャーナリズムの仕事に初めて漠然とした憧れを抱いた。「新しい戦前」が語られ、メディアが「抵抗」の志を失いつつあるように見える現在、特にメディアやジャーナリズムに関わる者たちにはじっくり再読されるべき作品だと思う。

差別への抵抗

 本田靖春もまた、私をこの世界に誘った先達の一人だが、幾冊もある秀作のうち『私戦』(河出文庫・1210円)をいま強く勧めたい。1968年に起きたいわゆる金嬉老(きんきろう)事件をテーマとする本書は本来、事件ものに分類される作品ではある。ただ、暴力団員を殺害して静岡・寸又峡(すまたきょう)の旅館に立て籠(こ)もる事件を起こした在日朝鮮人2世の生い立ちと素顔を描き、戦後日本の社会構造をも喝破した本作は、事件と人物評伝の両者の性格を併せ持つノンフィクションでもある。

 本田はこう書いている。〈彼の非行歴も犯罪歴も、われわれが恥じるべき性質のものである。なぜなら、それらは、われわれが築いて来た差別と抑圧の構造の所産に他ならないからである〉

 歴史や社会構造へのこうした真摯(しんし)で率直な自省が失われ、ヘイトや排外的な風潮ばかりが政治にも社会にも強まる昨今、魚住昭野中広務 差別と権力』も再びひもときたい人物評伝である。被差別部落にルーツを持ち、「影の総理」と呼ばれるほどの実力者にのし上がった老政治家の軌跡を追った本作には、きらびやかな系譜を誇示する世襲の政治家がこんな台詞(せりふ)を吐いたと記されている。

 「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」

 本作によれば、野中は烈火の如(ごと)く怒り、与党の会合で「絶対に許さん!」と痛罵し、その世襲政治家は〈顔を真っ赤にしてうつむいたままだった〉という。だが、権力を縦横に操りつつも歴史や弱者への柔らかな眼差(まなざ)しを同時に内包していた老政治家はすでに逝き、あからさまな差別言辞を吐いたという世襲政治家はいまなお政権の中枢で権力を振るい続けている。

政治の中枢で

 そんな現下日本政治の内実を描く人物評伝の近著では、森功国商 最後のフィクサー葛西敬之』も力作。かつて国鉄の分割民営化で頭角を現した男はいかにして「国商」となり、憲政史上最長の「一強」政権にどのような影響力を及ぼしたのか。本作を読めば、「一強」政権が警察官僚を重用した理由も、総務省文書で一端が明るみに出たメディア制圧への欲望やその背景も、かなり明確な輪郭を伴って浮かび上がってくる。=朝日新聞2023年5月20日掲載