「自分の作家の歩みと並走してやってきた仕事なので、ひとつ肩の荷が下りたような感じがします」。新潮文庫でおなじみの三島作品と似た装丁に仕上げた新著を前に、そう語った。
本書の起点となったのは、デビュー2年後の2000年に文芸誌に発表した「『英霊の声』論」だ。以来、小説を執筆するかたわら三島作品の読解に長く取り組んできた。「なぜ自分があのとき、あんなに『金閣寺』に感動したのか。それが、いま自分という人間を形づくっている根本のところにある」。三島を論じるということは、すなわち「自分とは何か」を問う行為でもあったと言う。
1975年生まれの自身と三島との共通点を尋ねると、「現実に対する不信感、一種の虚無感みたいなもの」と答えた。三島は戦後の民主主義社会にニヒリズムを感じたが、「僕自身は北九州の出身で、早い時期から高度経済成長後の『鉄冷え』で製鉄所がすさんでいく様を見ていたし、現実に満たされない感覚は非常に強く持っていた」。
80年代のバブル全盛期は「空疎な空騒ぎ」をメディア越しに見て東京への不信感を募らせ、京都大に進んだ後は阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件といった末世的な出来事が立て続けに起き、「何のために生きているのかを強烈に考えさせられた」と話す。
そうしたなか、「美」が自分を救済してくれるのかという「金閣寺」の問いに共鳴。「芸術や文学が人間を救済しうるのかどうかを真剣に考えた」結果、作家のキャリアをロマン主義から歩み出すことになった。大学在学中に文芸誌に投稿し、後に芥川賞を受賞した「日蝕(にっしょく)」では中世ヨーロッパの錬金術を扱った。
錬金術は「賢者の石」を手に入れることで卑金属を貴金属に変えられると説く神秘思想。「何でもない日常をいかに価値化するか。世界の無価値さとどう向き合うかという思想運動が錬金術だった。虚無の中からいかに価値を生み出すかに強い関心を持ったという意味では、三島と僕は近い」
一方で、「ロマン主義的な物語世界に浸っていれば自足できるかというと、そうでもないということにも突き当たらざるを得ない」と語る。「フィジカルな身体を持っているかぎり、やっぱりこの世界で生きていかなきゃいけない」
平野さんは本書で、三島が「何としてでも、生きなければならぬ」(「私の遍歴時代」)、「生きようと私は思った」(「金閣寺」)と何度も記した点を指摘。その上で、あくまで作品の読解をもとに彼が〈何故、あのような死に方をしたのか?〉という〈問い古された疑問〉に向かう。
「三島の死を考えるときには、彼が20代、30代で何とか戦後社会に適応しようとした姿を認識しないといけないと思った」。だが、「自分が抱える虚無感を、天皇という大きな存在にゆだねていこうとする、そうして最終的に死に至るプロセスには違和感がある」とも。「三島を批判的に克服していかなきゃいけない」という課題は、作家としての思想的な柱ともなった。
本書ではほかに、「『仮面の告白』論」でこれまで同性愛が主題とされてきた作品を〈恋愛指向と性的指向の不一致の物語〉として読み直し、「『金閣寺』論」では金閣を〈絶対者〉である天皇の隠喩として読む可能性を提示。後半では最大の長編に挑む「『豊饒(ほうじょう)の海』論」を展開した。
大著を書き上げ、「ひとまず自分の考えはまとまった」と話すが、「この本に収まりきらなかった話もあるので、機会があれば書くこともあるとは思う」と言い足した。「セクシュアリティーや仏教との兼ね合いなど、いままでの三島論とはちがうアプローチで論じたところもある。むしろ、ここから活発な議論が広がっていくことに期待しています」(山崎聡)
没後半世紀、なお相次ぐ評論・創作
平野さんの「三島由紀夫論」刊行と前後して、この春は三島由紀夫を引用する評論と創作が相次いで発表された。一冊は、美学者の谷川渥(あつし)さんによる評論「三島由紀夫 薔薇(ばら)のバロキスム」(ちくま学芸文庫)。三島作品を植物の観点から捉えた「三島由紀夫のフローラ」を中心に、〈薔薇〉や〈林檎(りんご)〉に託された彼の美意識を明らかにする。
一方で、文芸誌「文芸」夏号に掲載された直木賞作家、佐藤究さんの小説「幽玄F」は、「豊饒の海」を思わせる易永透(やすながとおる)という名の人物が主人公。戦闘機で飛行中に幻視する〈透明で巨大な蛇〉など、三島の「太陽と鉄」に付された「エピロオグ――F104」へのオマージュが満載だ。
没後半世紀を過ぎても、三島はなお生き続ける。=朝日新聞2023年5月31日掲載