同書は、イシャウッドの母の日記と、父が従軍先から母に宛てた手紙、そして自身による注釈で構成されている。
両親が初めて出会ったのはビクトリア朝後期の1895年。キャスリーンの日記には2人のデートについてこんな記述がある。
「ホテル・ド・イタリーに行って昼食。それから水彩画美術館に行く。突然、気がつく。私はもちろん、そういうレストランに食事に行ったりしてはいけなかったのだ!」。2人の長男イシャウッドの注釈が続く。「ヴィクトリア朝後期の、このたしなみの良さは、困りものだ。もっと昔の『べからず』はゆるんだのに、こうしてまだ残っているものもある」。イシャウッドの注釈が入ることで、当時の英国の人々のしきたりや暮らしぶりが見えてくる。
やがて2人は結婚し、イシャウッドが誕生。穏やかな日々を送るが、1914年8月、英国がドイツに宣戦布告したことで、フランクは戦地にかり出されていく。キャスリーンは日記に「胸が張り裂けそう」と書くが、フランクの手紙からは、砲弾が頭上を飛ぶ下で「どっかりと坐(すわ)って、編み物を」したり、絵の具箱を欲しがったりする様子が伝わってくる。手紙には、「私の敵を愛することが、なんの苦もなく、できるのだ。――彼らは友なのだ!」「ひそかに、この戦争から抜け出したいと、いつも思っている」といった記述もあった。
フランクの態度について鶴見さんはエッセーで「英国紳士とも英雄ともほどとおい」とし、「私の時間を大切にすることが、国家批判の立場にたつものにとって必要だ」と書いている。
「まてよ、あそこは…」、俊輔は読み終わるとまた… 横山さん思い出語る
横山さんに「キャスリーンとフランク」の翻訳を振り返ってもらい、鶴見俊輔さんとの思い出を聞いた。
◇
――作品の魅力は。
個人と個人の関係に深く入っていくのではなくて、日記にあるキャスリーンの日常とうまく絡み合うと申しますか、とてもいい世界がそこにできている。私はそこにひかれました。
――鶴見さんはなぜ繰り返し読んだのでしょうか。
とにかく面白いということね。俊輔は、終わりまで読むとまた、「まてよ、あそこはどうだったか」と初めから読む。それが4回繰り返されているの。普通はつまらなくなりますよねえ(笑)。かなり分厚い本です。
――翻訳で苦労した点はありますか。
楽しい仕事でした。忍耐はいりますよね。訳しても訳しても終わらないという感じになったことは1、2度ありましたけれど、ほぼ、楽しく初めから終わりまで。私もゆっくりと訳しました。2年くらいかかったでしょうか。(長年にわたる日記や手紙で構成された本だから)急いだら申し訳ないじゃないですか。
――キャスリーンとフランクのように横山さんと鶴見さんはご夫婦ですが、鶴見さんはどんな家庭人でしたか。横山さんのお客さんに、お茶を運んで来てくれたとか。
(家事などについて)一生懸命、私の手助けをしようと思ってくれていたと思います。ただ、実際にそれが助けになったかというと、いっこうに(笑)。気持ちはありがたくいただいて。見ていて気の毒ですので、なるべくしてもらわないようにこちらが努力していました(笑)。楽しかったですよ。それぞれが家族のメンバーで、それぞれの働きが違うし、一緒に何かをやれば楽しむことができる。そういった環境はお互いにうれしかったですね。=朝日新聞2023年6月7日掲載