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「サイケデリック・マウンテン」書評 あり得ないとは言い切れぬ不穏

評者: 藤田香織 / 朝⽇新聞掲載:2023年06月10日
サイケデリック・マウンテン National Comprehensive Security Committee 著者:榎本 憲男 出版社:早川書房 ジャンル:小説

ISBN: 9784152102430
発売⽇: 2023/05/23
サイズ: 19cm/527p

「サイケデリック・マウンテン」 [著]榎本憲男

 圧巻の面白さである。
 ゲラゲラ笑えるわけではない。むしろ小難しく感じる読者も多いだろう。しかし未知の刺激に芽生えた楽しさが増殖していくのだ。
 物語の中心人物となるのは、内閣府に設置された〈国家総合安全保障委員会〉(通称NCSC)で、兵器研究開発セクションに身を寄せる井澗(いたに)紗理奈と、同じくテロ対策セクションに属する弓削啓史(ひろし)。NCSCは様々な省庁から集められた官僚たちによる混成チームで、井澗は厚労省、弓削は警察庁の出身だ。
 ふたりは気安く声をかけあう友人関係にあったが、ある日、弓削があらたまった様子で「井澗のほうで試してみたい自白剤ってないかな」と訊(たず)ねてきたことから途方もない事件の幕が上がる。弓削は、東京・青山のバーで国際開発金融機関に勤める男性が刺殺された事件の犯人が、動機を一切語らない、という案件に関わっていた。
 被疑者の男は、かつて渋谷でLSDを散布する事件を起こした宗教団体の元信者であることが判明したため、テロの疑いがあった。「なぜ」殺したのか。動機を語らないのではなく、未(いま)だマインドコントロールされているため語れないのではないか。仮説をたて検証を繰り返すうちに、更なる事件が発生する。
 常に理知的で、直感というものを下位に置く脳科学者の井澗。三十歳を過ぎた今も「フランダースの犬」を見れば泣くほど共感力の高い弓削。第二章で語られる殺害された金融マン鷹栖祐二の壮絶かつどこか魅惑的な生涯。無関係な別世界の住人たちの話のようでいて、読み進むうちに物語が自分の領域に迫って来る。
 脳と心。内と外。故郷、国、世界。その差異は何なのか、境界はどこにあるのか。やがて明らかになる真相に途方もない謀略だと息をのむ一方で、あり得ないとは言い切れなくなる。
 その、不穏に揺らぎ心乱される感覚が本書の、そして榎本憲男の面白さだ。
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えのもと・のりお 1959年生まれ。小説家、映画監督。著書に『エアー2.0』『巡査長 真行寺弘道』シリーズなど。