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菊間晴子さん「犠牲の森で」 大江健三郎作品の死生観を読み解く「亡霊と超越的存在」

菊間晴子さん

 大江さんの小説には、デビュー作となった短編「奇妙な仕事」(1957年)で殺される犬を始め、犠牲となって死んでいく獣たちのイメージがひしめいている。長編「同時代ゲーム」(79年)に描かれた巨人の「壊す人」は、村の人々によって解体された後で「犬ほどの大きさのもの」として再生。短編「空の怪物アグイー」(64年)では、上空をただよう赤ん坊の幻影が「カンガルーほどの大きさ」と表現される。

 本書はこれらを「犠牲獣の亡霊」と名付け、その亡霊といかに向き合っていくかが大江作品における一つの軸になっていたと指摘。その上で、忘れがたい記憶として取り憑(つ)く亡霊から逃れようとする想像力が、神秘主義的なネオ・プラトニズムの思想に影響を受けた「超越的存在との一体化」という、もう一つの軸を生み出したとみる。

 「血なまぐさい皮膚感覚をともなって生者に憑依(ひょうい)してくるような亡霊がいて、同時に、死んだ後に救済してくれるような超越的存在があらわれる。これらの拮抗(きっこう)関係で読み解けば、何かが言えるのではないかと思った」と菊間さんは話す。

 菊間さんは91年生まれ。幼少期からピアノを習っていたこともあり、当初は音楽を理論的に研究しようと東大へ。だが、現代美術に興味を持ったことで表象文化論と出会い、「ここだったら、音楽も現代アートも勉強しながら専門を絞っていける」と考えた。「文学をやるとは夢にも思っていなかった」と笑う。

 卒業論文は「かいじゅうたちのいるところ」で知られる米国の絵本作家モーリス・センダックを題材にしたが、大江さんが「取り替え子(チェンジリング)」(00年)でセンダックの絵本を引用していたことから作品を手に取ったところ、「死や魂に対する切実な関心にひかれ、抜けられなくなってしまった」。以来、約10年にわたる研究を元に本書を書き上げた。

 大江さんの母校でもある東大では、加筆修正の跡がある自筆原稿などの寄託資料をデータベースにして公開する研究拠点「大江健三郎文庫(仮称)」の設立に向けて準備が進み、菊間さんも昨年8月から携わる。

 「自筆原稿の綿密な調査から、大江さんの思考の痕跡が新たに見えてくることもあると思う。いままで私はイメージの変容を追いかけてきたので、今度は言葉のレベルからも挑戦していきたい」。大江さんの訃報(ふほう)に接したのは、本書の刊行直前のことだった。「大江さんは生きることに書くことが肉薄していた。大作家としての名前だけではない、リアルで生っぽい部分を伝えていきたいと思っています」(山崎聡)=朝日新聞2023年6月14日掲載