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「一八世紀の秘密外交史」書評 抑圧的なイデオロギー化を予告

評者: 福嶋亮大 / 朝⽇新聞掲載:2023年06月24日
一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源 著者:カール・マルクス 出版社:白水社 ジャンル:歴史・地理・民俗

ISBN: 9784560094945
発売⽇: 2023/03/30
サイズ: 19cm/257,6p

「一八世紀の秘密外交史」 [著]カール・マルクス、カール・アウグスト・ウィットフォーゲル

 19世紀ヨーロッパの知識人は、ロシアとアメリカをどう評価するかに頭を悩ませた。フランスの思想家トクヴィルはこの新興の両国こそがやがて世界の運命を手中に収めると予想したが、これほどシャープな考察は例外的だろう。人類の科学を模索していた19世紀人にとって、特にロシアは知的に捉えがたい謎であった。
 共産主義を「ヨーロッパを徘徊(はいかい)する亡霊」と呼んだマルクスは、1850年代半ばに今度はロシアという怪物の研究に取り組んだ。クリミア戦争の後に公にされた本書は、ヨーロッパとは異なる「アジア的」な政治経済のシステムをロシアの専制主義に見出(みいだ)し、その成り立ちを批判的に検討したものである。そこには、たんに資本主義の揚棄(ようき)をめざすだけでは人類の真の解放には到(いた)らないという、彼の洞察が隠れている。
 マルクスはロシア政治の原点を「タタールのくびき」つまりモンゴル帝国による支配に認める。そこで蒔(ま)かれた専制主義の種は、西洋文明を効果的に利用したピョートル大帝(プーチンのお手本でもある)に受け継がれた。彼は18世紀初頭にペテルブルクに拠点を築き「バルト海の王」としてロシアの海洋進出を促した。マルクスはその驚異的な成長ぶりに、ロシアの専制的なシステムが、いずれ人類の運命を左右するまでになる可能性を感じたのだ。
 20世紀ロシアのマルクス主義はやがて抑圧的なイデオロギーに変じたが、マルクス自身が本書でそのことをある程度予告していた。スターリンは本書を嫌い、マルクスの全集にも採録されなかった。もとより、本書の記述は古いし、資料の限界もあって実証的なものではない。しかし、ロシア専制の根源を探る本書の歴史的価値は、今般のウクライナ戦争によって、よりはっきりしたと言えよう。ウィットフォーゲル(東洋的専制論の主唱者)の序文および訳者解説も、ともに読み応えがある。
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Karl Marx (1818~83) ドイツの思想家▽Karl August Wittfogel (1896~1988) ドイツ出身の歴史家。