- わたしたちの怪獣
- 吹雪
- その昔、ハリウッドで
眠りにつくまでのすべての時間を、映画を観(み)ることに費やしていた時期がある。その頃の私には、実人生よりもずっと、映画のほうが自分に近かった。満員電車や、公共料金の支払いや、咀嚼(そしゃく)するたびに吐き気ばかりが込み上げてくるようになったコンビニ弁当などよりも、エイリアンやゾンビやマフィアのほうが、何か、本当のことのように思えた。現実なんてどうでもよかった。映写機から放たれる光がすべてだった。
久永実木彦『わたしたちの怪獣』はそのような、どうしようもない人生に対する破壊行為としての映画鑑賞をSFとして活写している。そこでは怪獣が現実として現れるが、物語は怪獣を決して中心とはせず、怪獣が現実に現れたことを目の当たりにした少女たちの視点を軸とする。所収作「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」ではそうした手法をさらに突き詰め、人生を映画に委ねた観客たちが、ミニシアターでB級映画を観ながら、ゾンビたちに襲われた世界で、一生の終わりのときに、映画がもたらしたささやかな偶然の関係のかけがえのなさを尊ぶ。
言うまでもないことだが、SFとは無数にある現実のうちの一つであって、それは一つの現実なのだから、そこで描かれた人々が生きていないものと断ずることはできない。ウラジーミル・ソローキン『吹雪』は、感染するとゾンビ化する奇病を治癒するワクチンを届けるために、五十頭の生きた馬でできた車に乗って吹雪の中を駆け抜けるという、一見すると荒唐無稽な作品だが、その荒唐無稽さは切実なものでもある。トルストイやゴーゴリといったロシアの古典的リアリズムを踏襲した手法と文体によって描き出される、奇妙な技術発展を遂げた近未来ロシアは、ネオユーラシア主義という前時代的な誇大妄想とポスト・インターネット時代の高度に情報化されたコミュニケーション環境が混交する、今ここに実在する現代ロシアの絶望的な姿を映し出す、一種のドキュメンタリーと読める。
むろん破壊は絶望だけを照射するわけではない。映画館の中では、決してすべてが絶望であったわけではない。クエンティン・タランティーノ『その昔、ハリウッドで』では、映画に取り憑(つ)かれた男たちが史実上の悲劇を覆し、もう一つの歴史を打ち立ててみせる。スクリーンの上で、あるいは紙面の上で、世界は無数に分岐していく。死者たちはみな蘇(よみがえ)り、宇宙の原理そのものが組みかわる。私たちは、たとえつかのまのものだったとしても、その瞬間には現前する、絶対的な希望を目撃する。そして私たちは世界への信を取り戻す。そう、私たちはやり直すことができるのだ。この現実の向こう側で。何度でも。=朝日新聞2023年7月26日掲載