- R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』上・下(古沢嘉通訳、東京創元社)
- ジャミル・ジャン・コチャイ『きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする』(矢倉喬士訳、河出書房新社)
- 犬怪寅日子『羊式型人間模擬機』(早川書房)
現代は変換の時代だ。マルチモーダルLLM(テキストに加えて画像や音声など複数の情報形式を理解・生成できる大規模言語モデル)の登場は決定的で、今やAIは言葉をコードに、画像に、音楽に、動画に変換し、そしてその可能性を拡張させ続けている。今後は記憶も、感情も、夢も、身体も、あらゆるものが変換操作の対象になるだろう。変換とは、ただの転写や模写ではない。それは力による再構成、すなわちある枠組みの中で「異なる意味」として生き延びるための、ある種の暴力的手続きなのだ。
R・F・クァン『バベル』では、中国人の孤児ロビンが、大英帝国の翻訳機関「バベル」で学びながら、帝国の植民地支配の構造に疑問を持ち、抵抗運動に身を投じる。ここでの「翻訳」とは、植民地の文化を帝国の秩序に組み込むための変換行為である。翻訳における困難=「不可能性」をめぐる問いは、単に言語に閉じた話ではない。それは、異質な他者が他者として異質なまま在り続けることを認めるか、あるいは自分に都合のよい形へと変換するかという倫理の問題でもある。
ジャミル・ジャン・コチャイ『きみはメタルギアソリッドⅤ(ファイブ):ファントムペインをプレイする』もまた、変換の暴力性を、ゲームという現代的メディアを通じて描く。『メタルギアソリッドⅤ』を「プレイする」ことは、戦争の模倣である。アフガニスタン系アメリカ人であるコチャイにとって、ゲームの中でシミュレーションされる戦地は、自身の現実そのものと重なる。そこでは、物語を語るプレイヤーという主体と、常に物語られる対象としての自己が反復的に変換され続ける。ゲーム=変換装置という場において、記憶と語りは奪われつつも獲得され、混交された新たな視点が生成される。
犬怪寅日子(いぬかいとらひこ)『羊式型(ひつじしきがた)人間模擬機』が扱うのは、変換の終着点――身体そのものの変容である。死を迎えた者が羊へと変身し、食され、記録されるこの一族の儀式は、個人の終焉(しゅうえん)と家族の維持とを同時に達成する構造的暴力だ。アンドロイド「わたくし」が続ける「記録=保存」という一見無垢(むく)な行為も、制度の中で行われる限りにおいて、変換の暴力に加担する。本作における人間性とは、自然発生した属性などではなく、何者かによってあらかじめ制度的に構成され、設計された形式なのだ。
変換とは、何かが奪われると同時に獲得されるということだ。それは一つの暴力の形式だが、我々はその暴力なくしては文明を推進することも維持することもできない。既にシミュレーションに覆い尽くされた現実においては、シミュレーションなくしては現実は認識され得ないのである。今回紹介した三つの作品には、そうした現代のリアリティが描かれている。=朝日新聞2025年4月23日掲載
