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「ワーグナー」「中島みゆき」「小室哲哉」「演歌・歌謡曲」 なぜ歌人・小佐野彈さんは分裂した音楽趣味を持ったのか

©GettyImages

 僕の運転する車の助手席や後部座席で、カーステレオから流れる曲を耳にした人はたいがい「お前やばすぎ」とか「趣味が謎すぎる」とかツッコミを入れて来る。好きな曲を適当にシャッフルしたiTunesのプレイリストを再生しているだけなのだが、友人や知人からしてみると相当変わっているらしい。

 たとえば昨日軽井沢の自宅から群馬の温泉へ出かける道すがらでは、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」序曲を皮切りに、SHISHAMO「明日も」、中島みゆき「誘惑」、美空ひばり「みだれ髪」、globe「FACES PLACES」、aiko「えりあし」、研ナオコ「泣かせて」が流れ、たしかMr.Childrenの「NOT FOUND」の歌い出しか1番のBメロのあたりで目的地に着いた。どれも大好きな曲ばかりである。

 同行の友人は僕とは長い付き合いでかなり親しいほうだけれど、それでも彼は「相変わらずだな、おい」と笑っていた。

 僕の音楽の趣味は基本的に、「ワーグナー」「中島みゆき」「小室哲哉」「演歌・歌謡曲」の4つの要素が骨格となっていると思う。森山直太朗さんやミスチル、友人でもあり青春時代によく聞いたJUDY AND MARYも捨てがたいが、本稿を書くにあたって考えながら、究極的に絞るなら上記の4つにたどり着くなあ、という結論に至った。「ワーグナー」については語りたいことが多すぎて紙数が溢れてしまうのと、他の機会に書くと思うので、今回は「中島みゆき」「小室哲哉」そして「演歌・歌謡曲」について綴りたい。

 僕は子供のころから、楽譜は全く読めない癖に、一度聞いて覚えた曲であればいわゆる「耳コピ」でピアノでそっくり弾くことができる、という特技があった。また、ホテルや路線・観光バス事業を営む企業家の家の息子として生まれたせいか、いつも大人(しかもかなり年上の)に囲まれていた。社長を務めていた祖父をはじめ、その取り巻きの関連会社やグループ会社の役員のおじさん達は皆演歌やムード歌謡がお好みで、役員一同でのカラオケ大会などでは昭和の懐メロばかりが歌われていた。僕は空気を読めない人間と思われがちだが、実は超絶空気を読みまくり、場の盛り上がりや雰囲気をかなり気にするほうである。おじさんたちから「彈ちゃんも一曲!」という声がかかり、流行りの歌やおじさんたちの知らない曲を歌った場合、「社長の孫」ということできっと盛り上がったフリはしてくれるだろうけれど、心の中では「なんだ、このチャラチャラした曲は」と思われるに違いない。だから、「ぜひ一曲!」と頼まれたときは必ず演歌や歌謡曲、そしてご批判はあろうが時には軍歌まで歌っていた。オハコは川中美幸さんの「ふたり酒」や、八代亜紀さんの「もう一度逢いたい」、ちあきなおみさんの「紅とんぼ」や斉条史朗さんの「夜の銀狐」などだった。とうてい小学生の歌うレパートリーではない。

 ピアノの場合も同様で、祖父や祖母、あるいはおじさんたちから「彈ちゃんなんかピアノ弾いてくれい!」とリクエストがかかった時は、知っている演歌や歌謡曲から軍歌に至るまでなんでも弾いてみせた。おじさんたちは拍手喝采、大喜び。僕は「ああ、良かった。ちゃんと空気読めてた……」と胸をなでおろしたものだった。

 中島みゆきさんの楽曲に出会ったのは中学に入ってからだ。僕が歌人・作家になるきっかけが、中学2年の時に出会った俵万智さんの第3歌集『チョコレート革命』であることは数々の場所で書いて来た。『チョコレート革命』は自身のセクシュアリティに戸惑う僕の苦しみに寄り添ってくれたが、僕の苦しみや悲しみを受け止め、消化を助けてくれた点では中島みゆきさんの楽曲も同様である。僕が小学校6年生の時、ドラマ「家なき子」が放送され、中島みゆきさんの歌う主題歌「空と君のあいだに」も話題になっていた。しかし、僕を中島みゆきワールドの虜にしたのは、1980年に発売されたアルバム「生きていてもいいですか」である。アルバムのタイトルの凄まじさもさることながら、1曲目に収録された「うらみ・ます」という曲の歌詞に驚いた。「あんたのこと」を「死ぬまで」恨む、というのである。この曲だけでなく、中学時代に知った中島みゆきさんの70年代から80年代にかけての曲たちは、どれも悲しみや苦しみ、そして普通なら口に出すのをはばかられるような負の感情を、まったくオブラートに包むことなくド直球で歌い上げていた。

 学校で毎日、同級生からひそひそと「あいつホモらしいよ」と噂されつつも、家では家族に衝撃を与えないように一生懸命明るい息子を演じていた僕の心は悲鳴を上げていた。中島みゆきさんの歌う「悲しみ」や「恨み」、「嫉妬」や人の不幸を願う気持ちは、当時の僕の心境とドンピシャに重なった。そこからは、中島みゆきさんの古いアルバムを買い漁っては、部屋でひとりCDウォークマンで聴いていた。我ながらつくづく陰鬱な中学生だと呆れるが、中学生の僕にとっては昼間に味わった苦しみのはけ口として、どうしても中島みゆきさんの楽曲が必要だったのである。

 小室哲哉さんの音楽も同じだった。小室さんは言うまでもなく90年代日本の音楽シーンを席巻したスーパースターであり、シンセサイザーやコンピューターを使ったいわゆる「打ち込み」のサウンドが人気を博していた。数々の新しい才能を発掘してプロデュースし、「小室ファミリー」の一員としてまたたく間にスターダムへと押し上げる手法も斬新だった。僕の同世代で、小室さんのサウンドに触れていない人はいないんじゃないか、とすら思う。小室さんは作曲はもちろんのこと、歌詞も書いた。小室さんの書く歌詞は、「失われた10年」と言われた不景気な90年代の気だるい雰囲気と見事に合致する独特の語彙が散りばめられ、意味よりも雰囲気や感情が重視されていてポエジーの塊だったが、なんていうか、今風の表現で言うならばとにかくエモかった。誤解を恐れずに言えば、かなり「メンヘラ」に寄り添う内容だった。

 前述の通り、中学時代の僕はセクシュアリティの相克と、表の顔と裏の顔の使い分けに疲れ切って、かなり精神状態が不安定だった。いわゆる「厨二病」のせいもあったけれど、突然泣きたくなったり、消えたくなったり、眠れなくなったり。高校に進んでから僕は自律神経失調や強迫性障害の診断を受けるが、当時は理由がわからなかったし、とにかくなんだか毎日がダルくて切なかった。小室さんの作品の中でも特にglobeの楽曲は、全般的にいわゆる「病んでる感じ」の歌詞が多くて、退廃的で、刹那的で、それでいて抜群にオシャレだった。具体性よりも象徴性の強い言葉で綴られた歌詞にはいい意味での「余白」がたっぷりあって、どの曲も想像力で歌詞と自分の状況をつなぐことができた。

 最近の曲は意味や状況がわかりやすい歌詞が増えた気がするし、よく言えば描写の具体性が増している。すぐ耳に馴染むし、情景が浮かぶ。くわえて、時代のせいなのか、全般的に「正しい内容」が目立つ。無論、ラップやヒップホップの中にはかなりヤバい内容を歌っている曲も数多くあるし、あいみょんさんや藤井風さん、あるいは米津玄師さんやAdoさんの曲にはかなり衝撃的な言葉がちりばめられている。でも、ランキングのトップに来る曲は「悪いこと」や「ネガティヴなこと」が少なくて、コンプライアンス的に正しい感じの歌詞が多い気がしている。

 僕が青春時代を送った90年代後半、つまり小室さんの全盛期は、なんかヤバくて危なくて、メンヘラな内容の歌詞の曲がミリオンヒットを記録し、当たり前のようにオリコン1位になっていた。小室さんの曲に限らず、あの頃はメンヘラな曲が多かったし、そういう曲が市民権を得ていた。

 スマホもなかったし、インターネットも今ほど普及していなかったから、僕のような現実世界に救いを見いだせないメンヘラ人間にとって、小室さんの楽曲に代表される病んだ感じの、メンヘラに寄り添う歌詞の曲たちは、大げさではなくものすごく貴重な拠り所だったのだと思う。そしてそういう曲が何百万枚も売れていたことで、「ああ、俺だけじゃないんだ」と思えたし、孤独感を覚えずに済んでいたのかもしれない。