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歌人・小佐野彈さんが親しんだ富士屋ホテルの「飴色の匂い」

洋風建築の随所に和の要素が施された富士屋ホテル=2021年6月、神奈川県箱根町

 僕はホテルやゴルフ場、スキー場や温泉旅館、バス・タクシーなど交通事業とレジャー事業を広く展開する「国際興業グループ」という企業を営む家に生まれた。長らく社長を務めていた祖父(両親の離婚後、戸籍上は僕の父となっていた)が他界した際に相続した株式や経営権を図らずも手放さざるを得ない状況に追い込まれたのは2004年の晩秋である。僕は大学生で、21歳だった。

 大きな後ろ盾と、依って立つものを一気に失ったショックは大きかった。祖父から常々「俺たちは社員のおかげで生きているんだからな」「従業員は家族だぞ」と言われて育った僕にとって、会社とのつながりを失うことは家族を失うにも等しい衝撃だった。生涯忘れえない記憶となっている。株式をすべて失い、新しい経営陣からは所有するホテル等の施設の利用を控えるよう申し渡しがあった。バスやタクシー、運送業など国際興業が営むすべての事業や携わる従業員の人々に抜き難い愛着があったけれど、所有していた各ホテルへの出入りを止められたのはとても辛かった。

 家業だった国際興業グループは、東京の城西・城北地区に暮らす人や埼玉南部の人にとっては路線バス会社という印象が強いだろう。関西地方の人ならば、大手タクシー会社というイメージがあるかもしれない。しかし、グループの中核となっていたのは、祖業である運輸・交通など自動車関連の事業より、ホテル事業だった。あまり知られていないが、国際興業は2007年まで帝国ホテルを所有していた。また、今でも箱根の「富士屋ホテル」やその系列ホテル、ハワイの「シェラトン・ワイキキ」や「ロイヤル・ハワイアン」、「ウェスティン・モアナ・サーフライダー」などの有名ホテルを多く所有し、運営している。

 まだ何者でもない、ただの恵まれた大学生に過ぎなかった僕にとって、名門と言われるホテルを営む家に生まれたことは、自分のアイデンティティそのものだった。ロビーに集う多様な人々の、どこかよそ行きめいたさざめき。ダイニングの凛と張り詰めた空気。あらゆる人々の非日常を演出するべく努力するホテルマンたちのきびきびとした足取り。英語はもちろん、フランス語やスペイン語まで操るベテランのコンシェルジュの控えめな笑顔――。僕はとにかく、ホテルという場所が好きだった。

 すべてのホテルに語り尽くせぬほどの思い出と愛があるけれど、箱根・宮ノ下にある「富士屋ホテル」への思いは格別のものがある。明治11年創業の富士屋ホテルのオーナー家の一員であったことは僕にとって大きな誇りで、それは会社とのつながりを失ったいまも変わっていない。

 物心ついた時から明治24年に建てられた本館のロビーが大好きだった。飴色の柱の一本一本に刻まれた彫刻一つ一つまで、詳細に覚えている。一昨年の改装工事で部屋数は120室程度に減ったらしいが、2004年当時、富士屋ホテルには146の客室があった。先述の本館を始め、明治39年築の西洋館(1・2号館とも)、昭和5年築のメインダイニングルーム棟、昭和11年築の別館「花御殿」(「フラワーパレス」とも)に加え、従業員寮として使われていた旧本館「アイリー」はそれぞれ登録有形文化財であり、近代化産業遺産にも指定されている。

 孫文やチャップリンが投宿した本館のジュニアスイート「45号室」。蒋介石が愛し、通称「ハネムーン・スイート」とも呼ばれた本館「50号室」。昭和天皇やスウェーデンのグスタフ国王夫妻、ジョン・レノン夫妻やマッカーサーにも愛された花御殿の最上級のスイート「352号室・菊」の格天井は素晴らしく、欄間や漆塗りのスタンド、昭和初期にヤマハが作った特注のベッドに至るまで、本物の香りで溢れていた。他にも、ヘレン・ケラーが泊まった花御殿のスイート「252号室・桜」など著名人のゆかりある客室が多くある。

 大変恵まれたことに、オーナー家の息子だった僕には好きな部屋に泊まる自由があった。望めば上記の由緒ある豪華な部屋に好きなだけ泊まることができたわけだが、僕が愛してやまなかった部屋は、特に有名な誰かとゆかりがあるわけでもない、西洋館2階にあるスーペリア・ツイン「91号室」だった。富士屋ホテルではいつもこの部屋に泊まり、この部屋の匂いや気配のすべてを愛していた。「91号室」は、どちらかというと客からは敬遠されがちだった。というのも、庭園にある大きな滝の真横に位置することから、昼夜を問わず水音がうるさいのだ。古い建物だから防音措置など施されていないので、窓の外からざざあざざあと、絶えず驟雨のような音がする。神経質な人なら眠れないだろうし、会話もままならないかもしれない。でも僕はこの音も含めて、大好きだった。

「91号室」は明治の洋館にありがちな真っ白な漆喰の折り上げ天井に、不思議な竹の模様が描かれていた。富士屋ホテルの部屋の多くは洋室でありながら、外国人向けホテルだったこともあり、日本趣味が色濃く反映されている。しかし西洋館の部屋だけは例外的に「和」の要素が少なかった。そんな中で数少ない「和」の要素が、折り上げ天井に描かれたくすんだ竹の模様だった。

「91号室」のクラシカルな猫脚のバスタブで温泉に浸かり、少し硬めのベッドに入る。天井の竹の模様を眺めながら、絶えず聞こえてくる水音に耳を傾けていると、重度の不眠症の僕が不思議とすぐにまどろむことができた。明日の朝、メインダイニングルームで何を食べよう。大好きなホットケーキか、それともスパニッシュオムレツか。オートミールもいいな……。ベッドの中でそんなことを考えているうちに眠りに落ち、気づけば朝になっているのが常だった。

 そう、朝食について語らないわけにはいかない。富士屋ホテルは朝食も格別だ。イギリスの伝統的な朝食の「キッパード・ヘリング」(ニシンの燻製)や「モーニング・ステーキ」がメニューにあるのは、富士屋ホテルや日光金谷ホテルなどクラシックホテルならではだろう。ちなみに富士屋ホテルでは、「ホットケーキ」と「パンケーキ」が別のものとしてメニューに載っている。「パンケーキ」はクレープ状の薄いもので、僕らが日頃「パンケーキ」と呼んでいるふかふかのアレは「ホットケーキ」だ。富士屋ホテルのホットケーキを「シルバーダラー」(昔日のドル銀貨)と呼ぶ人もいた。銀貨サイズのふかふかのホットケーキが、金の縁取りがされたお皿の上に3枚載っている。艷やかな茶色の表面にたっぷりとバターを落として、はちみつをかける。ナイフを入れて口に運べば、なんとも言えない懐かしい甘みと上質な小麦の香りが鼻腔を抜けてゆく。僕にとっての至上の朝食は、過去も今もこれからも、富士屋ホテルの「ホットケーキ」であり続けると思う。

 ヘレン・ケラーはかつて、富士屋ホテルに投宿したあと日光金谷ホテルに移り、到着するや否や「このホテルは昨日のホテルと同じ匂いがする」と言ったらしい。古い木造洋館には、共通する匂いがある。なんというか、「飴色の匂い」といった感じの不思議な甘い匂いだ。高度成長の中、戦前のホテル建築がどんどん取り壊され、無味乾燥なビルディング型のホテルばかりが増えた日本で、「飴色の匂い」がするホテルはもうそう多くない。

 温泉が好きで、最近も箱根によく足を運ぶ。国道138号を登って宮ノ下交差点に差し掛かると、富士屋ホテルの建築群の壮麗な唐破風や塔屋が目前に迫る。今は車の速度を少し落として懐かしく眺めるだけだけれど、近いうちに一人の客として、「飴色の匂い」を嗅ぎに訪れてみようと思っている。