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乗代雄介さん「それは誠」インタビュー 子どもたちに伝えたい“確かに在る”青春「この世界は捨てたもんじゃない」

乗代雄介さん=松嶋愛撮影

どの選評も読んでいません

――「それは誠」は芥川賞候補作。これが4度目のノミネートで惜しくも受賞を逃しましたが、ご自身は芥川賞についてどんな思いがありますか。

 それが、ほんとになんの思いもないんですよね。そもそも高校生の時、ブログを始めてからずっと、書くということは一人の行為で、反応を気にしたことがなかったんです。デビューしても変わらず、書評も選評も自分のことが書いてあるからといって読もうという気が起きるわけもなく。だから、実はこれまで受けた賞の選評もほぼ読んでいなくって。授賞式で選考委員の方に「選評にも書いたけど」と話しかけられて、その時は「やばい」と思ったから読んだ方がいいなとは思ってます。でも、そんなに怒らないんじゃないですかね。小説は誰しも自分勝手にやってることですから。

――そうなんじゃないかと思ってました(笑)。でも、そうなると、なぜ群像新人文学賞に小説を応募しようと思ったのでしょう。

 そこなんですよね。うーん、(専業作家である)今の状況になって思うのは、こういう書くだけの暮らしをしたかった、というのが一番の理由だったんじゃないかな。

――デビュー作『十七八より』や『旅する練習』など、乗代さんの小説の語り手は、いつも日記や回想録など「書くこと」で物語を進めていきます。『それは誠』も主人公・佐田誠が修学旅行の思い出をパソコンで打ち込んでいく、という設定ですね。

 文字が、文章が、もっといえば小説が、「書くから在(あ)るものだ」という意識が抜けないんですよね。(語り言葉で綴られた『ハックルベリー・フィンの冒険』の)ハックフィンが喋っている時間は絶対にあるはずで、それが小説の形に整ったときに、じゃあこの長々続いてるのはどういう時間なんだ? って、どうにも承服できなくて。好きな作家もそういう「書いている時間が無視できない人たち」ばかりで、そういう人たちは性格も同じなんですよ。権威が嫌いで、一人が好きで。書くというのは一人の行為。それが本になったとき、そうではない形になっていると、なんか違うと感じるんです。

――では、思っていることと、それを書き表したことには違いがあると思いますか?

 できれば、両者を同じものにしたい。それが一番うそがない。そんなことは不可能ですけど。ただ、書き言葉と話し言葉のあわいに、「これは」という瞬間があることも。僕は昔から、気にいった作品を書き写す習慣があるのですが、その作者のことも作品のことも知ったうえで、「じゃあここを書き写そう」となったときに、その先が「こうなるよな」とわかる。数文字じゃなく、行単位でわかる。それは前に読んでいるからということでしかないかもしれないけど、貴重な実感ではあるわけです。他者の書いたものが自分のなかで「誠」になっていく感覚というのは。そんな風に、自分の作品も書いたことが考えたことと一緒になるのが理想です。

塾講師10年で得た子どもの実像

――誠は吃音がある松という男の子と同じ班になります。松が話したことを文字に起こすとき、「僕は自分の発言だけ都合よくなめして、松の言葉は生で放り出すんだから、本当にろくでもない」と葛藤します。そのほかにも書くことの暴力を誠はいつも自覚し、悩んでいますね。

 これは当然そうなるだろうと考えていました。複数人の会話を書く時、そこに吃音者がいれば、話者が誰だったのか明示しなくても進められる。わかりやすく書くために、松の言葉をどもらせてしまう。ただ、それを松のためにナシにすると、今度は「お前の言葉を添削するよ」という別の裏切りになってしまうし、書き始めた誠の衝動から外れていってしまう。どちらにも開き直れるものではないですよね。そういう意味では、誠には苦労をかけたけど、よく格闘してくれたなと思いますね。

――誠と同じ班になるみんなは、モテる女子もサッカー部で活躍する男子もいますが、不登校気味の誠や吃音の松を見下すことがなく、スクールカーストに囚われない子たちばかりですね。このある意味あっさりした彼らの態度は、長年、塾講師をしてきた乗代さんの実感でしょうか。

 そうですね。「こんないい子たちいないよ」って言われるんですが、その感覚は僕には全くないですね。僕が先生をしていたのは、クリスマス会やすいか割りがあるようなアットホームな個人塾で、小2と高校生が仲良く喋っているようなところだったんです。先生と生徒も気の置けない関係でした。10年やってましたけど、「こんなにもいい子が存在することが可能なんだ」と思ったことは何度もあります。

――誠は修学旅行の自由行動の時間を使って、東京にいる叔父に会おうとします。今作もそうですが、乗代さんの小説には叔父や叔母がよく登場します。肉親でもなく、赤の他人でもないこの距離感は、ご自身の「塾講師と生徒」という距離感からきているのでしょうか。

 その通りです。塾講師は親との面談もありますから、僕に対してはいい子であるその子が、家庭内では違った顔を見せるというのもわかっています。家でも自分を装っていたら不健全ですし、逆に親の前で本音をさらけ出して、何かを乗り越えたりしなくてもいいと思うんです。それが、叔父・叔母や塾の先生という関係であれば、彼らは見栄を張ってくれる。装ってなきゃ言えない本音もありますからね。僕といるときに子どもたちが「いい人間でありたい」と実践してくれるのはすごく嬉しいことでした。だから、僕はそれに応えたい。そんな子どもたちにふさわしく、この世界は面白いんだよと知らせたいと思うようになりました。

 講師として働きながら小説を書いていたときは、逆にそんなことは書かなくても、直接子どもたちにいろんな形で伝えられていました。『旅する練習』を出すときに専業作家になり、そこから彼らに向けて書き始めるようになったんです。その子たちが大人になるときになにか資するもの……っていうと偉そうだけど、彼らに読んでほしいという気持ちは『旅する練習』以来、ずっとあります。

純文学とエンタメはゼロサムじゃない

――なぜ今回は、子どもに伝えたいことが『それは誠』という形になったのですか。

 この世界はけっこう捨てたもんじゃない、というのが僕の実感なんですが、文学って捨てたふうになりがちじゃないですか。捨てた方が言葉が進むっていうか。現実に相対して歯を食いしばって、とかそういう前提をもったマインドに子どもたちにはなってほしくない。じゃあ、どうやってその願いを含んだ小説にするかっていうなかで、今すごい凝っている書き方があって、それが〈場所から書く〉ということなんです。

 目当ての場所を決めたら、そこに一カ月くらい泊まり込んで、あらゆる時間帯にいろんな行き方で同じ場所を歩き回って、見たものをその場で書き留めていくんです。『それは誠』の場合は日野市でした。たとえば、公園にやって来た保育園児たちが落ち葉で遊ぶシーンがあるのですが、あれも実際に目にしたことです。すると、この時間帯に園児たちが散歩に来るとか、きれいな乾いた落ち葉が冬になってもたくさんあるとか、舞台の状況が把握できてくる。そうやって集めた風景から当然起こるべきこととして小説が立ち上がってきます。ストーリーは自分でコントロールしている意識はなくて、見たものを小説につなげるというより〝つながる″という感じなんです。その場所で人がなにかしているイメージが見えてくる。「この時、この時間にここにいたら、こうなっていました」っていう証拠が僕の中にあるから後ろめたさもない。

 自分で考えてやったとしたら絶対に選ばないようなことも、「見たんだからしょうがない」って書ける。僕の実感の問題で、人がどう思うかは知りません。でも、この方法を続けているうちに、足りない部分は見つかるまでとにかく歩くし、歩いてるうちに必ずぶつかるだろうという確信が、この世界に対する信頼とも呼べるべきものができてきました。捨てたもんじゃないな、と。

――この物語が本当に在ることだと思うと、大人の私まで心強くなります。デビュー作『十七八より』から、どんどん文章が平易に、展開もいわゆるエンタメ的になっているように感じますが、これは子どもたちに届くようにという配慮からでしょうか。

 いわゆる「純文学」を人に見せる必要はないという思いが前からあって、今も誰にも見せずに編集者にも渡さずに一人で道楽のようにやっている作品がけっこうあります。子どもたちのことを頭に入れて書いている作品はそれとは別の書き方になるわけですが、だからといってエンタメというわけでもない。そもそも純文学かエンタメか、ゼロサムになるものではないと思うし、マンガは芸術だと認められて久しいのに、なぜ純文学は純文学として隔てられたままなのかって疑問もあります。本来ならすべてのジャンルを引き受けられるのが純文学だと思うんです。

(読み手を意識しない)純文学であるまま人に読まれることが、工夫すればできるんじゃないかと考えたとき、突破口となったのが歩き回ることでした。すると、その展開を生んだのは自分じゃなくて、世界になる。読まれたい、読みやすくありたい、という自意識を介在させなくて済むんです。

「誠」っていう言葉が好き

――誠の人物像はどうやって作っていきましたか。

 誠が書いたものとして小説が進むので、こいつはどうやって言葉を得て、どんな言葉の使い方をするのかというのはかなり考えました。たぶん誠は町のそんなに大きくない古めの図書館に一人通って自己形成をしてきた人間。だから方言など地方色を出さなくても、文学的背景さえきちんとあればいいと思っていました。実際そういう図書館にあちこち行って、どんな文学や批評用語辞典があるのか品揃えを調べたりしましたね。前半、彼がかなり古くさい批評用語を使っているのはそこからです。

 そうやって知識の中に閉じこもって生きてきた人間が、人と関わらざるを得なくなったとき、どうなるのか。そんなものなくても生きていけると思ってた人間だけど、実際にやりとりが生まれてグッときちゃったら、お前どう考えるんだよ、お前の書くものはどう変わるんだよ、っていうのをやりたかった。知りたかった、と言った方がいいかな。

――最後に、『それは誠』はどんな作品になりましたか。

 僕、「誠」っていう言葉が好きなんです。「誠」って、「言ったことが成る」ていう意味なんですね。真理とか抽象的なことじゃなくて、「言ったことがほんとうになったよ」っていう言葉なんですよ。この先、佐田誠がどうなるか知らないですけど、あの修学旅行でのみんなとの会話とかやりとりとか、それに対して誠が感じたこととかは、全部ほんとうにあったことなんだって言える小説になったことはよかったなと思います。

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