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「結婚/毒」 深いところで共鳴する回顧録 朝日新聞書評から

評者: 山内マリコ / 朝⽇新聞掲載:2023年09月30日
結婚/毒 コペンハーゲン三部作 著者:枇谷玲子 出版社:みすず書房 ジャンル:欧米の小説・文学

ISBN: 9784622096160
発売⽇: 2023/06/20
サイズ: 20cm/437p

「結婚/毒」 [著]トーヴェ・ディトレウセン

 20世紀前半に立身出世を成し遂げた女性作家はそう多くない。ましてや労働者階級の出身となると尚更(なおさら)だ。コペンハーゲンの貧しい地区に生まれ育ったトーヴェ・ディトレウセンは、若くして詩集を出し、やがてはデンマークの国民的人気作家になったという。不遜(ふそん)に煙草(たばこ)を咥(くわ)えたカバーの写真から、てっきり女傑のような人物をイメージした。真似(まね)できないタイプの、特別な人間なのだろうなと。
 ところが自身の半生を私小説的にふり返ったこの回顧録に、そんな様子は微塵(みじん)もない。むしろ誰もが「私にそっくり」とシンパシーを抱きそうな、内気で不器用な自画像だ。人見知りで、からかわれては赤くなり、黙って俯(うつむ)くような普通の少女。内向的に綴(つづ)られた言葉は、読者と深いところで共鳴できるものを宿す。彼女は私だと、自分を重ねたくなる作家である。
 貧しく粗野な家庭の子である幼いトーヴェは、生まれてくる場所を間違えた迷子さながら。異質な存在であるがゆえに孤独だが、だからこそ観察者としての眼光は鋭い。たびたび失業する社会主義者の父、恥ずかしくなるほど厚かましい母。貧しさに侵食された彼らの心性を冷徹に見抜き、親として敬うことが、小さな頃より難しくなってきたと率直に吐露する。
 「子ども時代は棺(ひつぎ)のように長く、窮屈で、自力では抜け出せないものだ」
 時間が永遠のように感じられる絶望が、何度も強調される。
 詩も文学も入り込む隙のない家庭環境のなか、彼女はこっそりノートに詩を書きはじめる。詩人になりたいと言うと、父に「女の子になれるわけがない」と一蹴されるが、それでも彼女は読むことと書くことだけを慰めにし、それは長く暗い少女期を耐え抜く力となった。
 たった14歳で働きに出され、いくつかの恋のようなものの果てに、30歳年上の編集者との出会いがあり、本の出版に至る。夢が叶(かな)うときは案外あっさりしたものだ。そしてその先に待っているのは、結婚という、また別の苦い現実なのだ。
 執筆時、中年期を迎えていたトーヴェが来し方を明かす語り口はどことなく淋(さび)しげだ。決して特別ではなかった少女が何者かになった成功譚(たん)なのに、憂いに覆い尽くされ、曇り空が晴れることは最後までない。でもだからこそ、信じるに足る。
 1917年生まれ、76年に58歳で生涯を閉じた。生誕百年を機に本国では、MeToo運動以降の新たな文脈で再評価されているという。貧困に逆戻りしつつあるこの国でも、彼女の物語は、拠(よ)り所となる光を放つ。
    ◇
Tove Ditlevsen 1917~76。デンマークの作家。コペンハーゲンの労働者階級の家に生まれる。作品に詩集『女心』、小説『ヴィルヘルムの部屋』、児童書『アンネリーセは十三歳』など。