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客観的な描出 神の視点さえも、人間が創造 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年11月〉

絵・黒田潔

 人間がきちんと描けていなければよい小説ではないと仮に定義してみよう。そうなると「人間をどうやったら正確に描写できるか」が探求されることになる。外側から人間および人間社会を客観的に描出するには何の視点が必要か? 答えはほぼ一択で、神である。そこで小説内に神を登場させたとする。すると、どうなるか? その神も作者(という人間)に創造されているのだから全然オールマイティーではない。いわば神ではないのだけれども神だ。以上は狐(きつね)につままれたような“解”に見えるはずだが、その狐さえも作品内に登場させる小説が実在するのだとしたら、どうなるか? そんな小説は傑作になる。絲山秋子『神と黒蟹県(くろかにけん)』(文芸春秋)である。都市部と対置される架空のローカル県に「黒蟹県」と名づけて、ローカルさは平凡さであるという常識に、極めて非凡な固有名を与えつづけて、その“架空”の力こそが人間および人間社会を描きますよ、と真顔で書いていて、“架空”なんだから神も出しますよ、かまわないですよねと猛進して、しかも笑いを炸裂(さくれつ)させている。神から見た人間たち(日本のローカル県在住の)は、かなりの不合理な生を選択している。が、その人間たちに愛らしさやいじましさを神は発見する。その果てに読者はこの「黒蟹県にいる神」に何を発見するか? 神もまたいじましい、愛らしいという真実である。ここでは世界全体が(じつのところは)愛し合っているような感触が発見される。

 いっぽうで世界全体が(この現代においては)憎み合っているとの決定的・断言的見地から出発していると感じられるのが九段理江「東京都同情塔」(「新潮」十二月号)で、あらゆる差別を検閲しようとするこの“現代”とは何か、を真剣に考察する行為こそが人びとを検閲と差別に駆り立てるとの実相を体感的に理解させる。新国立競技場はザハ・ハディド案を白紙撤回することで現在の東京に建ったが、しかし作品内では「ハディドの国立競技場」が建ち、そこに三十代後半の建築家の女性が新しい塔を――国立競技場の真北に――調和させて建てようと試みる。建築家の戦闘的な言説に、さらに複数の語りのテキストが増築されて、異様な巨大さでこの中篇(ちゅうへん)は迫る。

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 その「東京都同情塔」はバベルの塔に言及して始まるが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの古典的短篇にして傑出した一作「バベルの図書館」(野谷文昭訳、「MONKEY」三十一号)の新訳は、民族と言語の多様性の神話を一つの想像力の図書館に埋めこんでいる。古典の新訳は翻訳者により密度が変わるわけだが、この野谷訳には明らかに現代の空気感がある。というよりも密度が二十一世紀的に変じている。それゆえに何が起きたのか? ボルヘスの想像力の大きさは現代でも全く萎(しぼ)んでいるようには感じられない、と理解させている。むしろ図書館がAIの譬喩(ひゆ)に読めて、その果てに「滅びる人類」という構図はいっしょである。
 温又柔「二匹の虎」(「すばる」十二月号)の冒頭、中国語と台湾語と日本語が氾濫(はんらん)する空港はバベルのその図書館に通じて、そもそも国際空港とはそういうものだと了解させる。そのうえで「ことばは万能じゃない」と告げ、一人の人間がいま現在“どこか”に暮らしているとして、そんなふうに「人が『どこか』にいる」とはなんなのか、を掘り下げる。これは人間がどのように生まれてきたのかの根源的な問いに通じる。つまり家族とは、国家とはとの問いだ。おそらく親族が大集合する宴席とは崩れないバベルの塔なのだ。

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 ボルヘスの実在そのものが作中にほぼ臭うと言っていいのがモアメド・ムブガル・サールの『人類の深奥に秘められた記憶』(野崎歓訳、集英社)だった。作中、往時のアルゼンチン文壇そのものも出るのだ。しかも物語は「迷宮」との語がその題名についた幻の小説とこれの作者を追い、パリからセネガルまで地上を迷宮化して旅する。その文学的探求は真摯(しんし)だが同時にゲームでもある。このゲーム性には根拠がある。アフリカ(と黒人)の歴史はヨーロッパ(と白人)の覇権のための政治的・軍事的なゲームの過程で「人類史」に入ってきた、との事情を、極めて客観的に、かつシニカルに眺めているからだ。眺める作者はセネガル人、本書のために用いた言語はフランス語。評価されたのもフランス国内で、となると、これがいかに命懸けのゲームであるかが体感される。=朝日新聞2023年11月24日掲載