ISBN: 9784065337486
発売⽇: 2023/10/26
サイズ: 20cm/438p
「怪物に出会った日」 [著]森合正範
現在、スーパーバンタム級の世界王者である井上尚弥は、「日本ボクシング史上最高傑作」と評される最強のボクサーだ。今年の12月26日に2階級目となる4団体王座統一をかけた試合を控える戦績は、25戦25勝22KO。異様なまでの強さから、人は彼を「モンスター」と呼ぶ。
本書は東京新聞運動部の記者である著者が、この井上に敗れた11人の対戦者を訪ね歩くことを通して、その尋常ならざる“強さ”を浮かび上がらせようとした一冊だ。
井上戦について語る敗者たちの言葉はどれも濃密だった。
誰もが対戦を避けるなか、井上戦で一瞬の火花を散らした河野公平、アルゼンチンの英雄オマール・ナルバエス、どれだけ打たれても井上に向かっていった佐野友樹……。
「井上のパンチが僕のことを、遥(はる)か彼方(かなた)に追いやったんだ」「僕は闘ってみて、ハートがモンスターだと思いました」――そんな彼らの言葉の数々が、井上の強さを確かに浮き彫りにしていく。
だが、互いに拳を交えたボクサーたちの言葉によって徐々に浮かび上がるのは、井上尚弥という怪物の輪郭だけではない。本書を読んでいると、とにかく胸に迫ってくるのだ。「敗者」であるボクサーたちの人生が、井上の放つ強烈な眩(まぶ)しさに照らされていく姿が。井上と闘ったことが、彼らのボクシング人生をいかに輝かせ続けることになったか。その過程は井上の“強さ”の重さまでをも鮮やかに描き出しているかに見えた。
「あまりに強過ぎる一人のボクサーの姿をどのように描くか」という問いに答えるため、敗れた者の話を聞く。
全てを「その日」のために捧げてきたボクサーにとって、それがどれほど酷なことであるかを、長くボクシングの世界を取材してきた著者は十分過ぎるほどに知っていた。それでもなお「敗者の物語」に分け入ったとき目にしたのは、勝者に何事かを託し、いまもその経験を糧にして生きるボクサーたちの「物語」だった。
井上を描くという難題に対して、一人の書き手として「人を描くこと」にこだわったそんな取材者としての覚悟にも、私は深い感動を覚える。
「怪物」と出会ったとき、人は自らを見つめ直さざるを得ない。「怪物」と対峙(たいじ)することで見てしまった景色が、「敗者」たちを否(いや)応なくそうさせるからだ――。井上の“強さ”とはそのようなものであることを伝えた、熱量に満ちたノンフィクションだ。
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もりあい・まさのり 1972年生まれ。東京新聞運動部記者。スポーツ新聞社を経て中日新聞社に入社。ボクシング、五輪、野球などを担当し、雑誌への寄稿もある。著書に『力石徹のモデルになった男』。