取材で過酷な旅ばかりしている。千葉の県境が全て川なのか歩いて確かめたり、廃線になる路線を120kmほど歩いて記録したり、多摩川に架かる橋の本数を歩いて数えたり。なんだ、歩いてばかりじゃないか。そのような紀行文を書く時は、読者に「うわ、行きたくないな」と感じてもらえるよう心掛けている。
行ってみたいと感じる紀行文は良質だ。でも、そう感じるくらいだから読者が同じ経験をする可能性はそこそこある。一方、行ってみたくないと感じたものは行こうともしない。だから絶対に体験できない世界の記録として極上の価値がある。そこを目指して書いている。
イラク水滸伝を読む。乾燥したイメージのイラクに巨大な湿地帯があり、そこには権力に抗(あらが)う人々や迫害されたマイノリティが逃げ込んだ歴史があり、とにかく謎めいている。現代でもどこか浮世離れした場所。ワクワクする。行ってみたい。
辺境をただ訪問しただけの体当たり紀行文ではない。知られていない地域の歴史、文化、そして生活様式を文献や取材から、時には現地の人との雑談から、著者の豊富な知識と取材力を駆使して考察を深め、解き明かしていく。理解が進むほどに心奪われる。行ってみたい。
謎めいた地に住む人々であっても同じ人間だ。習慣や文化の違いはあるものの、同じように喜び、同じように笑い、同じように怒る、そして同じようにいい加減で段取りが悪い。著者はそれらの人々をとてもコミカルに描く。魅力的な人々だ。行ってみたい。
不安定な社会情勢、治安の悪さ、頻発するテロ、文化の違い、想定外のトラブル。桁違いの困難が立ちはだかる。なにも思い通りにいかない。ついにはコロナ禍まで重なってしまった。私の120km徒歩くらいなんてことないと思える。その困難に思いを馳(は)せ、ついつい叫んでしまった。うわ、行きたくないな、と。=朝日新聞2024年1月6日掲載
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文芸春秋・2420円。4刷1万8千部。「足かけ6年の取材・執筆を経た著者の新境地。500ページ近いのに一気読みできるドライブ感で、30~50代男性を中心に売れている」と担当者。