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幡野広志さん「うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真」インタビュー ポジティブな気持ちで相手に向き合おう

幡野広志さん(右)=本人提供

インタビューを音声でも

 ポッドキャスト「好書好日 本好きの昼休み」でも幡野さんのインタビューをお聴きいただけます。以下の記事は音声の内容を編集したものです。

「撮るよ。こっち向いて」って絶対言わない

――仕事で写真を撮ることもある一人として、いろいろ学ぶことの多い本でした。この本で想定しているのはおそらく家族写真とか、近い関係の人を撮るケースですね。

 そうですね、今は家族とか友達とか、近しい関係の人を撮る人がほとんどだと思うんですけど、近しい関係性だからこそデリカシーを失う人が多い。その最上級がやっぱり子ども。「自分の子ども」という考えがあるから、やっぱり遠慮がなくなっちゃうわけですよ。

 遠慮がない人が写真を撮ると、やはり遠慮のない写真になってしまう。僕も子どもを撮る時に意識しているのは「撮るよ。こっち向いて」と絶対言わないこと。ほとんどの人が多分、スマホを構えても「こっち向いて」って名前を呼んでると思うんですが、やめたほうがいいと思います。子供からすれば写真撮影のために遊んでるわけじゃないし。写真を撮られるのって、大人でも緊張しますから。

「親が声をかけたらたのしさにブレーキがかかる。子どものたのしさを写真で邪魔しない」(本書より)

――本にも書いてありましたね。「自分は写真を撮られたくない、だけど子どもを撮りたいという人。身勝手が撮影に反映されて写真に写るだけです」。これ、自分のことだと思いました。

 自分が撮られたくない写真を撮っちゃダメですよね。「自分は写りたくないけど撮りたい」という人がたくさんいると思うんですけど、せめて自分が撮られたい写真にしないとだめですよね。

 40~50代は写真に写りたくないって人、すごく多いんですけど、それは子どもの頃から、写真で嫌な思いをしてきたから。学校の写真や卒業アルバム、成人式で撮った写真館の写真など。写真で嫌な思いしてるんですよね。僕もそうですもん。そういう人たちは結局、ポジティブな写真を生産しにくくなってしまう。相手のことを気にしないで撮ってしまうことが多い。

――思い当たる節がたくさん……。

 だけど、今の若い人たちって、スマホが普及して、SNSもあって、友達同士で写真を撮るようになったわけですよ。ストレスを感じず、写真が楽しくなってきた世代なんですね。今の高校生とか中学生ぐらいの世代って、今後の日本の写真のことを考えたら、希望が持てる。かなり変わると思いますよ。

忍者になって存在を消すには

――仕事で「町の風景」を撮ることが時々あるんですけど、ファインダー越しに被写体との距離をどう取るかが難しいです。土門拳さんの『筑豊の子どもたち』は、子どもの写真を撮るために、ずっと街に住み込んだとも聞きますし。

 あの時代は写真に写ることが貴重な時代でしたから、カメラを向けて喜ぶ人がたくさんいた。でも、日本はもうそういう時代ではないですから、現代で同じように写真を撮ることは難しいですよね。

 逆に土門拳さんとか木村伊兵衛さんみたいな超有名写真家だったら撮られたいという人は、当時いっぱいいましたよね。誰がカメラを持っているかということも重要なんです。写真は関係性なので。見知らぬ人に撮られるっていうのは、誰だって嫌ですよね?

――「忍者になって存在を消す」ぐらいの感覚でシャッターを切ること、やってみると難しいですよね。どうしても気づかれてしまう。

 思っているより簡単だと思いますよ。カメラを構えた時点で向こうは絶対、身構えるけど、今のミラーレスカメラはほとんどシャッター音を消せますから。最初の30枚だけシャッター音を使う。すると相手はシャッター音を意識しますよね。その後、シャッター音を消して撮り続ける。そうすると相手は「撮っていない」ように感じるから、それだけで相手の緊張をほぐすことができます。

 その後、1000枚ぐらい撮るんだけど、使う写真はせいぜい3~4枚。必然的に当たるわけです。シャッター音が鳴ってたらそんなに撮れないと思うんです。写真って「数打ちゃ当たる」なんで、決定的瞬間じゃなくて枚数を撮ることが大事ですから。

「背景よりも光を気にする。シャッターチャンスは光のチャンスのことだと思う」

メディアの写真はなぜダメなのか

――この本で「写真がダメな人の典型例」として挙げられていた中で、「マスコミ」とありました。

 マスコミ関係の人にとってこの本は、本当に耳が痛いはず。ちょっと前に別のメディアから取材受けたんですよ。ある作家さんの写真を、撮った記者さんはうまく撮れたと思ってる。だけどその作家さんからすれば絶対、自分のSNSで拡散したくない写真になってしまっている。

 新聞社系のメディアって、SNSで拡散するときは縦長の写真が横長にトリミングされることが多いんです。顔や口元だけアップにされた写真になってしまう。あれは被写体がかわいそうです。新聞の写真を流用するというのは、言い訳としては通用するかもしれないけれど、取材した相手の尊厳は守っていないということです。吉野さんも、自分の顔のドアップの写真は撮られたくないですよね。

――別媒体のインタビューを受けたことがあるんですけど、ドカーンとドアップ写真がウェブに載って「ちょっとやめてくれ」と思いました。

 嫌でしょ? そしたらやっぱりやっちゃダメなんですよ。最悪のケースはすごい短いレンズやスマホを使って、近い距離で撮影されるパターン。「嫌だな」と思う距離では、やっぱり撮っちゃダメなんですよね。5メートル離れましょう。そこからちょっとトリミングするぐらいでいい。顔のドアップを取るっていう発想をまず捨てましょう。

――「いい写真とは何か」という話に尽きると思うんですけど、新聞の「いい写真」って、動いてるものをどれだけきちんと止めて捉えるか。褒められるのは、高校野球の地方大会でボールが止まってる写真ですね。

 それは多分、1940年ぐらいの、写真を撮るのが大変でフィルムが貴重だった時代の感覚ですよね。今はデジタルカメラがこれだけ普及しているから、気にせずたくさん撮れるはずなのに。

 新聞社の記者の方が撮る写真って、自信がなく見えるんです。自信ない人がどうするかっていうと、すごい長い望遠レンズがすごい短い広角レンズ、そのどちらかを使ってしまう。そういうレンズで撮ると見た目が変わるから、そこに頼ってしまう。本当は標準レンズでいいんだけれど。

――基本、自信はないですよね。自分が上手いと思ってないから。

 自信がないのであれば、ちゃんと勉強をして技術を磨かないダメですよね。ところでカメラは何を使っていますか?

インタビュアー私物を撮影。レンズは18mm-300mmと広角・望遠兼用で、シャッタースピード優先の設定にしていたが、幡野さんは「絞り優先でいいじゃない」

――10年以上前に地方に転勤したときに、高校野球のことを考えて、連射のスピードが速いデジタル一眼レフにしました。当時はミラーレスもなかったので。

 やはり「止めること至上主義」なんですね。高校野球みたいな特殊事例のために瞬間を気にするのなら、動画で撮って切り出す方がいい。

 それから、新聞記者の人が集まる記者会見って、ストロボをパシャパシャ炊くじゃないですか。あれ、実は意味がないですから。フィルムで撮影する時には必要だったけれど、デジタルは基本的にフィルム以上の高感度ですからね。首相会見は絶対ストロボを炊かないじゃないですか。多分禁止されてるから。それでテレビが撮影できているってことは、十分な光量があるわけですよね。

――おそらくデジタルでもISO1万とか超えると、ものすごくノイズが出るからではないかと…

 それも言い訳だと思うんです。同じ6400の感度でも、デジタルはフィルムよりノイズが桁違いに少ないから。テレビも同じデジタルカメラで撮りますからね。映像が撮れてるってことは写真も撮れるはずですよね。

――……はずです。

ネガティブな感情で撮ってはダメ

 マスコミの方たちの撮影現場を見て、あの集団心理はちょっと異常だなと思うことがありましたね。あれ、競争心ですよね。

――競争心というより「落としちゃダメ」っていう不安要素ではないかと。

 怒られちゃうとか、失敗しちゃうとか、ネガティブな感情で撮ってますよね。ネガティブな感情で撮った時点で、どう頑張っても写真は良くはならない。写真がうまい人たちは基本的に全員、ポジティブな感情で撮っているので、その差は大きいと思います。

――この本で幡野さんが指摘していた、広島の原爆の日の灯籠流しを撮影するメディア各社が取った行動は、おそらく「決定的な場面を1社だけ撮れないと大変だ」という恐怖から来ていると思います。

「個人で撮影にいっても現場で集団化してしまい、気が大きくなることがある。要注意」

 それはわからなくはないんですけど、みんな失敗したくないから団体で撮りますというのは、やはり間違いですよね。本来追悼をするためのもので、撮影会ではないから。その日の夕刊に出るのは、みんな同じ写真になってしまうじゃないですか。「1社だけ撮れないとまずい」というより「同じ写真を撮っちゃうことがまずい」という感覚にはならないものですかね。

――おそらく現場の人たちはいろんな構図を試してみたり、去年はなかった場面を狙ったりするんですけど、誰もが思い描く「原爆の日の灯籠流し」の構図に一番近いものが、結果的に採用されてしまうんじゃないかと。

 構造としてはそうなんでしょうね、でもやっぱりいいと思わないし、新聞だから何百万人単位の人が目にするものですよね。それを正しいと思う人がいっぱい出てきちゃって、どんどん負の再生産みたいなことになってしまう。

写真はコミュニケーション力

――私はフィルムの時代に会社に入ったので「写ってなかったらどうしよう」っていう恐怖がすごいありますね。失敗できない撮影は、必ず「押さえ」を撮りますし。

 あの恐怖心は確かに、トラウマのごとく、今の40~50代には残ってると思う。実際、今は撮影自体は楽になりましたからね。だけどなぜか新聞社の方々は、機材は最新になったのに、撮る原動力がやっぱりネガティブになってしまうのはなぜなんでしょう。「いい写真を撮る」っていう前向きな気持ちで撮ってないから、一向によくならないですよね。

「どんなときでもカメラを持ち歩く。だからどんなときでも持ち歩けるカメラを選ぶ」

――機材が発達したから、いろんなことはもう1回、学び直さなきゃいけないんだなと思いました。

 プロの真似事はしなくてもいいと思うんです。そうじゃなくて、記者ならではの強みをどんどん活かす。記者の方々のコミュニケーション力を活かす。写真ってむしろ、そっちの能力の方が大事ですから。結局コミュニケーションですから、写真も。

――まさに「写真は考える仕事」「本当に恥ずかしいぐらい性格が反映する」と。

 何より撮るときに緊張しませんか。その緊張が相手にピンピンに伝わってしまいますからね。記者の方は取材をする時、緊張はしないですよね? 自分の土俵に持っていく。自分でしか撮れない写真を撮る。それができればすぐ写真も良くなるはずです。適切に学んでないだけで、適切に学べば誰でも良くなるものですから。

【好書好日の記事から】

>幡野広志さん「なんで僕に聞くんだろう。」インタビュー がんを患った写真家が他人の人生相談に向き合う理由