【好書好日の記事から】
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実験みたいなことが楽しくて
――今回の連載企画はご自身から持ちかけられたそうですね。
この前に「やんごとなき雑談」(以下、「雑談」)というエッセイの連載をしていて、それが本になったタイトルを見た時に「『やんごとなき』シリーズを作れたらいいな」と思ったんです。それで「雑」から始まる漢字2文字の単語で何があるかなと検索したら「雑学」とか「雑煮」とかいろんなものが出てきた中に「雑炊」を見つけて。「ダ・ヴィンチ」のような本とマンガの情報誌で料理の連載をやったらおもしろいなと思い、それを編集さんにぽろっと言ったら真面目に考えてくれてこの企画が実現しました。
「雑に炊く」という字の通り、工夫次第で割と垣根を取っ払えるような気がしたし、連載を続けていくにあたっていろんな種類のものが提示できたほうが楽しいかなと思いました。
――手際の良さなどから普段も自炊されている様子が伝わってきましたが、中村さんが料理を始めた、好きになった原点はどんなところにあったのでしょうか。
ひとり暮らしを始めた頃はお金もないから、もやしとか安い食材を買ってきて、しょうゆをかけてざざっと炒めたものを食べていました。例えばレトルトのものでも、ちょっとした工夫やひと手間加えることですごく美味しくなったり、自分好みの味にできたりすることがだんだん分かってきて、そこからいろいろ作るようになりました。
――本連載を監修した料理家・タカハシユキ先生のお手本に、中村さんが普段お料理をするようにご自身のアレンジを加えた「ただの俺」シリーズも何度かありましたが、そのアレンジ力はどう身につけたのですか?
20代のある時、冷蔵庫の中にあるものをぱっと見て「これとこれであれが作れるな」と考えている自分がいて「いつの間にかスキルアップしているじゃない」って思ったんです。料理って実利的というか、生きていくためにやっていた面と、実験みたいな面があると思うんですよね。
例えば、味や見た目の完成形をイメージしながら食材と向き合って、調理する過程を計算して逆算していく。その結果、それがイメージしたものに近くなったか、近づかなかったか。途中で味見をした時に「これに昆布出汁を入れたらもうちょい美味しくなるかも」と試してみて、それが美味しくなったか、思ったものとは違うものになったか。イメージしたものがどんな結果になるのか分からないところや、いろいろ試していく「実験」みたいなことが楽しくてどんどん好きになっていきました。
――連載3回目で「雑炊というものの許容量が増え、範囲が広がった」と書いていましたが、この連載を通して気づいた「雑炊の魅力」はどんなことでしたか。
タカハシ先生がいてくださったのはありがたかったです。やっぱり自分一人では思いつかないものがどんどん出てきますからね。途中で「これはもう鍋だ!」と思うものや「カレーじゃない、これは雑炊なんだ」みたいな回もあったけど「これは雑炊です」って言い切っちゃえばいいわけじゃないですか。「生真面目に考えすぎず、そういうのでいいんだよ」というところが、僕が物作りで好きな根本の部分と似ているんですよ。自分で枠組みを作っておいて、それを取っ払っていくのはすごくクリエイティブな作業だなと思うんです。きっと、そういうおもしろさを3回目あたりから感じ始めたんでしょうね。
エッセイは「恥部の一歩手前」
――「紫式部の蹴鞠飯」など、独自性あふれた雑炊のタイトルとショートエッセイも毎回楽しみでした。前作の時から、タイトルやエッセイで用いる言葉、文章の組み立て方などのセンスを感じるのですが、その語彙力や文章術はどうやって培ったのでしょうか?
タイトルはいつもリアクションで出てくるものなので「今回はこれを作ります」と提示された時はそのリアクションに乗っかるだけなんだけど「ただの俺」のように、自分で一から料理を作って「自由にやっていいよ」って言われると、乗っかれないし浮かばないんですよ。なので、言葉が自然と降りてくる感じですかね。
文章術は担当の編集さんにビシバシ鍛えられましたから(笑)。若い頃はいろいろな本を読んでいたけど、ここ10年くらいは台本以外の文字を読んでいないので、文章の書き方って分からないんです。小さい頃も落書きとサッカーしかしていなかったから、大人になってたまに褒めていただいても、自分ではピンとこなくて。逆にいろんなものに影響されていないのが良かったのかもしれないですね。「本も読んでいなくても書けるんだぞ!」と、世の中の人たちに勇気を与えられたかなと思います。
――ショートエッセイでは、ご自身の過去や思い出話が度々顔をのぞかせていましたね。以前「THE やんごとなき雑談」の取材の時「自分の事をさらけ出すのは恥部中の恥部だ」と仰っていましたが、その自意識もだんだん薄れてきたのでは? という印象を受けました。
それは文字数もありますね。「雑談」の時は2000字くらい書かなければいけなかったので構成も4段は必要だったし、展開ももう一段深めなければいけない。もしかしたら、書きながら自分が気づいてないことまで掘り下げていくこともしていたのかもしれないけど「ショートエッセイのちょうど良い深さ」ってあると思うんです。そういう意味では、前ほど探求しない程度の、舌触りのいいエッセイが今回はちょうどいいのかなと思って書いていたので「恥部の一歩手前」くらいじゃないかな。
――そのせいもあってか、以前よりも筆致が軽やかに感じました。
それは単純に年齢を重ねたからかもしれないです。「雑談」を書き始めたのが2018年だったのですが、自分自身の変化もあって、フォーカスが自分ではなく、いい意味で外に向くようになりました。
今までは、夜寝る前に「今日は自分にとって有意義な一日だったかな」とか「いい日にするにはどうすればよかったかな」と考えて、一度清算するようなことをよくしていたんです。それがいつからか「今日はあの人にとっていい一日だったかな」に変わっていて。多分そこの方向性が変わったのは、自分が多少キャリアを積んで、年齢も重ねての変化だなと思います。
枝葉を伸ばしておもしろがった歴史
――本書のまえがきで「料理とは、自由なものです。この本は、自由を楽しむレシピ本です」と書かれていますが「雑炊」という縛り、囲いの中でどんな自由さを感じましたか。
俳優が雑炊の本を出している時点で「すごく自由な世界だな」って思うんです。「雑炊」という縛りで一冊の本にするのはなかなか他の料理雑誌でもやっていないでしょう? 普通は俳優が「雑炊の本を作りたい」って言ってもそれに乗っからないだろうに、このチームが「自由」という方向に枝葉を伸ばしておもしろがった歴史だと思うし、それを楽しみに待ってくれている人もきっといると思うので……。
――連載中も、試行錯誤しながらレイアウトや見せ方などを工夫されていて「料理」という企画でまだこんなに新しいことができるんだと思いました。
だって。がんばってよかったね(と、近くで見守っている担当編集者さんに声をかける)。僕も担当さんと料理の掛け算で新しいもの生まれる気がしたんです。そういうプロデューサー的な立ち位置も今回は少しあって「雑談」の時よりは、足のかかと分くらい下がっているんですよ。それによって、タカハシ先生をはじめとするスタッフの方々や、毎回着用するエプロンを考える人も「自分たちも能動的に動かないとまずい!」という思いが付加されて、それによる様々な変遷を経て、チームワークとしていい一冊になったんじゃないかな。個人的にはそこの楽しみも感じながら真ん中の立ち位置でやっていました。
制約の中で無限を得られる時
――「自由」が今回のテーマの一つだったかと思うのですが、人によって「何をもって自由と感じるのか」はそれぞれ、大人と子供でも違いがあります。中村さんは昔と今とで、自由に対する意識や捉え方に変化はありましたか。
若い頃はやみくもに「あれやりたい、こう思われたい、こんなものを手にしたい」と無知ゆえの妄想をして、手当たり次第に手を伸ばして欲しがっていたところがあったけど、今は不満に思うのも自由だと思うのも自分次第でどうにでも転がせられるし、それが人間だと思って生きています。それは経験則でもあって、自分と同じような境遇の同世代俳優もたくさんいましたが、才能や容姿、持っている能力など様々な差はあるけど、何を大事なものとしてそれをどう活かし、その結果何を手にできるかということも全部ひっくるめて、自分次第だなって思うんです。制約や枠組みといった有限なものの中で、何かを得られた時や無限を感じる時に、すごく自由だなと思います。
――「やんごとなき」(古語で「尊い、貴重な」という意味)シリーズを続けてきた中で、ご自身にとっての「やんごとなきもの」は見つかりましたか?
この前、寝る前にふと「雨風をしのげる屋根があって、あったかい布団があるって幸せだな」と思ったんです。あとは「昔住んでいたボロボロのアパートのすき間風がすごかったな。気づいたら台所にアリの行列がいたな」ということも最近よく思い出すんですよ。そういう生活に関わるちょっとしたことや、一緒に仕事する人たちとの出会いもすごく「やんごとない」ことですよね。きっと今、人生の折り返しにかかっているからそういうことを考えるタイミングなのかもしれないけど、いろんなことがすごく尊いものに感じています。
その尊いなと感じているものに対して、自分がちゃんと誠実にアプローチできたかどうかを振り返ると「今日会ったあの人も今頃、家で寝るんだろうな」とか「活字になった時にいいこと言えたかな」ということを考えるようになった。僕の中では全部が繋がっている感覚なんです。
思い出や物語を生み出す何かに
――あとがきの「料理には『記憶』を『記録』し思い出させる付箋のような役割もあるのかもしれない」という一文を見て、以前読んだ「その人にとって本当に“美味しい”ということは、ただ味がいいだけじゃなく、ずっと忘れない味ということなんだ」という言葉を思い出しました。
すごい。とうとうどこかの大先生が言っていたところまで至ってしまったな(とドヤ顔気味に)。今回のまえがきとあとがきは、この本を読む人にとってどういうものになったらいいかということの真意を伝えるために書いていたので、そういう風に思ってもらえたならよかったです。
――中村さんにとっての思い出の味は?
「あそこで食べたあれは美味しかったな」とか思い出はいろいろあるけど、例えば外食した時に「なんでそのお店に行ったのか」と付属するストーリーがあるじゃないですか。あとは町を歩いていて、どこかの家からいい匂いが漂ってくると「あ、これ知っている匂いだな」という思い出や物語、記憶を生み出すための何かにこの本がなったらいいなと思っています。
――「雑談」から始まり「雑炊」と続いたので、つい次の「雑〇」を期待してしまいますが……。
じゃあ次は「雑巾」でやりますか。新学期になると学校の先生から「各自、雑巾を2枚持ってこい」って言われるでしょう。雑巾をどうするか……。2年くらいの連載で、雑巾を毎月縫い続ける俳優っておもしろいんじゃない?(笑)