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ハルノ宵子「隆明だもの」 娘の中に受け継がれた思想

 戦後最大の思想家と言われた吉本隆明とその妻で俳人の和子には、2人の娘がいる。長女は漫画家のハルノ宵子、次女は数々の文学賞に輝く作家吉本ばなな。本書は、『吉本隆明全集』の月報に掲載されたハルノ宵子の文章をまとめたもので、晩年の吉本隆明とその家族の肖像が、ときに辛辣(しんらつ)に、ときにユーモラスに生々しい筆致で綴(つづ)られている。

 1996年、西伊豆の海で父隆明が溺れて死にかけた「事件」は、吉本家の歴史の中でも、“戦前・戦後”のようなランドマークになっている。著者が妹と合流しICUに行くと、父はもう気管の管も抜かれ、翌日には意識は戻った。このときの妻和子の第一声が「カッパの川流れね!」であったという。思わず笑ってしまうところだ。この事件を境に、急速に老いを深める父親を、娘は支える。思想家の父と、俳人の母という2人の表現者のいる家庭は、「家の中に虎が2匹いる」ような緊張感があった。その緊張感の真ん中で、ハルノ宵子は、微妙なバランスで自身の姿を隠しながら、猫のように鋭い観察眼を光らせ、ときに爪を研いでいたのである。

 偉大な父親と、繊細で完璧主義者の母親から生まれた娘たちは、どう生きればよいのだろう。その葛藤が行間から滲(にじ)み出ている。巻末の姉妹対談の中でばななが「ものを書こうとか絵を描こうとかって、本当に楽しい家庭に育った人は思うはずないだろう」と述べている。吉本家とはまさに、「薄氷を踏むような“家族”だった」のだ。

 随所に、吉本隆明の根底にあった思想が顔を出す。「何か善いことをしているときは、ちょっと悪いことをしている、と思うくらいがちょうどいいんだぜ」という父の言葉から娘たちは「群れるな。ひとりが一番強い」という思想を受け継いだのである。吉本隆明は幾多の思想の果実を残したが、その中心にあった自立の思想は、2人の娘の中に見事に身体化している。=朝日新聞2024年3月9日掲載

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 晶文社・1870円。5刷・1万500部。昨年12月刊。「思想界の巨人の病苦にとらわれた姿が衝撃的という声がある一方、暗い印象を与えない書きぶりが評価されている」と担当者。