仕事柄か、それとも生まれつきか、昔からふと目にしたものがその後も長く気にかかることが多い。
半年前、出先の駅で交通トラブルに巻き込まれ、さていつ帰れるかと途方に暮れた。電車は動く見込みがない。主たるトラブルは解決しているそうだが、先を行く電車が徐行しているため、我々あふれた乗客は駅の中で行列を成した。
幸い、カバンの中には常に本が複数入っている。これを読みながらゆっくり待つかと思っていると、すぐ前に並んでいる男性のスマホ画面がふと目に入った。大変人気のスマホゲームのプレイ画面だった。
わたし自身も同じゲームを一、二度、触ったことがあるから知っている。スマホの電池を大変消費するアプリゲームのはずだ。
電車はまだまだ動く気配がない。長距離列車が多い路線なので、目の前の彼もずいぶん遠方まで帰るのではと推測された。電池は大丈夫なのかしらんとつい心配になった。
結局、我々が電車に乗りこめたのは小一時間後。ちなみにわたしが帰宅できたのは、日付が変わってから。彼がその後、どうなさったかは分からない。ただそれから日が経っても、時折、彼のスマホの電池は保(も)ったかな、と思ってしまう。
人間が日々の中で接し得る事柄は、そう多くない。わたしなぞは眼鏡をかけてもひどい近眼なので、見えているのは半径数メートルの出来事だ。そんなわたしの目に映っていようがいまいが、花は咲いて散るし、人は生まれて死ぬ。すれ違った人はそれぞれの暮しを営む。色々なものが気にかかるわたしは、自分が知り得る範囲が大変狭く、またほんの一瞬に過ぎぬと色々な局面で気づかされ、都度、自分の小ささに改めて驚く。
そんなことを思いつつ歩いていたら、巣から落ちたツバメの雛(ひな)が車に轢(ひ)かれたらしく死んでいた。短い時間ではあれど、この仔(こ)は確かに生きた。自分はそれを知ったのだ、と考える頭の上の巣では、残る雛たちが元気な囀(さえず)りを響かせていた。=朝日新聞2024年5月22日掲載