きっと私たちはアイヌの人々の歴史をあまり知らない。なぜなら、彼らは自らの足跡を文字記録や絵にほとんど残さなかったから。ならば、モノの出番だ。このほど刊行の「つながるアイヌ考古学」(新泉社)は出土品を手がかりに、北の民の歩みに迫る。
近年、北海道のアイヌ文化への関心が高まっている。先住民族を明記した法整備がなされ、文化振興を図るウポポイ(民族共生象徴空間)も誕生。関連漫画も大ヒットした。ただ、これまでの研究はどこか表層的にとどまり、彼らの考え方や生活にいまひとつ踏み込めていなかったのではないか。筆者の関根達人・弘前大教授は、そう思うのだ。
ゆがめられた実像
なるほど、自然を愛し共生する人々といった画一的なイメージは相変わらずだし、いまも身近な存在とは言いがたい。なぜか。ルーツや歴史に不明な部分がいまだ多いのも無関係ではないだろう。自ら史料を残さなかったアイヌの人々は、自分たちを異民族視してきた和人らによって紹介されるほかなく、その実像はゆがめられてきた。
改めてアイヌ文化とは、奈良・平安時代に並行する北海道の擦文(さつもん)文化が南北の影響を受けて変質し、沿岸部に広がっていたオホーツク文化の生業や儀礼も受け継ぎながら13世紀ごろに成立した――。これがおおまかな流れだが、文化的追求は民具や呪具、生活用品などの伝世品を通した民俗的手法によることが多く、考古学的アプローチは遅れてきた。
なぜなら、編年の基本となる土器に乏しく、彼らが使った樹皮や動物の皮といった有機質の素材は失われやすい。なにより考古学研究者からは狩猟採集の縄文時代を知る手がかりとして扱われがちで、アイヌ文化そのものを研究する視点が欠けていた、と関根さん。「しかし中近世考古学が広がり、ようやく北海道ローカルな視点から脱出しつつある」という。
そこから見えてきたのは、主体性をもって躍動する交易民の顔だ。
たとえば、墓に副葬される鉄製品や漆器はその多くが日本製。一方で、中世日本を象徴するお茶や仏教、陶磁器などには関心を示さず、本土で顧みられなくなったいにしえの玉や鏡を、宝物や祭祀(さいし)具として重宝した。つまり、アイヌ社会は決して閉鎖的な世界などではなく、自らの価値観を堅持しつつ広く外に開いていたわけで、「日本社会を下支えしたアイヌ交易を抜きに日本史は語れない」(関根さん)。
「対等な時代あった」
かつて均一にみなされがちだった日本文化を、多様性をもってとらえようとする傾向は定着した。列島の南端で独自の歴史を歩み琉球王国を築いた沖縄と同様、北海道では弥生時代に入っても前代の縄文的な要素を引き継ぐ「続縄文文化」が展開し、本土と異なる歴史をたどるなかでアイヌ文化も生まれた。
しかし圧倒的な少数派ゆえに理解は遅れ、それが偏見や無理解につながっている、と関根さんはいう。「最初から虐げられていたわけではなく、対等な時代があったことを考古学的に示したい」
木彫りのお土産やエキゾチックな工芸品もいい。けれどアイヌ文化を知りたければ、もう一歩より深く。そんな時期に来ている。(編集委員・中村俊介)=朝日新聞2024年5月22日掲載