二〇一三年「短篇(たんぺん)の名手」としてノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローが、五月一三日に亡くなった。享年九二歳。
マンローは一九三一年、カナダ、オンタリオ州南西部の田舎町に生まれた。父の営む毛皮動物養殖が破綻(はたん)し、母はパーキンソン病を発症したため、長女として早くから家事や介護を担った。成績は抜群で、奨学金を得て州内の大学へ。学内誌に投稿した短篇が好評を博したものの、二年間の奨学金が切れると学費が工面できず、都会の裕福な家庭出身の同窓生ジム・マンローの求婚を承諾して退学、バンクーバーで新居を構えた。四人の娘を産み(障害のあった第二子は誕生当日に死亡)育てながら、家事の合間に短篇を書き、ラジオの朗読番組に採用され、やがて三七歳で初の短篇集『ピアノ・レッスン』を刊行、カナダ最高の文学賞、総督文学賞を受賞して世間の注目を集めた。夫ジムは妻の文学的才能を高く評価し執筆を応援したが、出自の違いからくる生活感覚のズレや思想の不一致から夫婦間に亀裂が生じ、ついには離婚。マンローはその後大学時代の友人と再婚して故郷に近い町に移り住み、書き続けた。
マンローは短篇しか書いていない(二冊の連作短篇集はあるが)。隙間時間での執筆に適しているからと選択したフォームが結局は自分に向いていると悟り、短篇の技術を極めていったのだ。作品の舞台は知悉(ちしつ)している故郷か子育てした西海岸、登場するのは市井の人々、自身や病んだ母をはじめ家族もモチーフとしているが、あくまで小説の素材として扱っている。数十ページに長篇一冊分を凝縮する、と評されるその作品は、時間を自在に行き来し、話の行先は見通せず、思いもよらないところへ連れていかれて平凡な日常に潜むドラマの面白さに瞠目(どうもく)させられる。真似(まね)ができない、と仲間の作家たちが言う文章は、簡潔ながら行間に奥行きがあり、人の心の複雑さをそのまま捉えていて、読み返すたびに違ったものが浮かんでくる。マンローは女性の生き方が最も激しく変化した時代を生き、従来の家族観や価値観が崩れていくなかでもがく女たちを描いてきた、容赦ない眼差(まなざ)しで。読者は作品のどこかで自分を発見し、裏も表も冷徹に暴かれているからこそ、かえって人生を直視する勇気を貰(もら)える。
マンローはスポットライトを避ける人だった。書評を書いたことはなく、教職は一時期だけでこりてその後教壇には立たなかった。インタビューは極力断り、ブックツアーもお断り。八三年にカナダ勲章授与の話が出たが、作品に対する賞は受けるが自身に対するものは受けないと断り、軽視されがちな短篇をひたすら書いてきた。これが最後、と言ってから二冊の作品集を出したが、二度目の断筆宣言のあとは本当に一作も発表しなかった。最後の十年ほどは、作品の題材にしたこともある認知症を患っていたという。
「女の一生」を稀有(けう)な作家として生きたマンローの短篇は、これからもずっと私たちとともにある。=朝日新聞2024年5月29日掲載