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ファン・ボルム「ようこそ、ヒュナム洞書店へ」 本だけが与えてくれる自由さ

 主人公ヨンジュはヒュナム洞書店という、カフェを併設する個人書店の店長。開店してしばらくは青白い顔で店番をし、客も寄り付かなかったが、苦しみが一段落した時から、彼女は猛烈に本を読み、書店のために奔走し始める。

 コーヒーに力を入れ、インスタグラムで本を紹介し、お客さんが増えると、作家のトークイベントや読書会、ライティング講座まで開催するようになる。

 書店に集うのは、バリスタのミンジュン、コーヒー豆を卸しているジミ、無気力な高校生ミンチョル、子育てに悩むミンチョルの母ヒジュ、たわしを編むジョンソ、堅物感のある作家のスンウ。彼らには、それぞれに辛(つら)かった過去や、悩みがある。

 漠然とした言い方になるが、私は本を読まない人といる時と、本を読む人といる時、全く違う世界にいる気分になる。「同じものを大切にしている安心感」、というと大袈裟(おおげさ)かもしれない。でも本を読む人というだけで、「大切に思う方向が近い人」、例えば「あっちよりはこっちかな」くらいの方向性の一致に、大きく息が吸えるような安堵(あんど)を抱くのだ。本書を読みながら私は、身体中に行き渡る濃い酸素をずっと感じていた。

 没入度の高い読書だった気もするが、厳密に言うとそうでもなかったような気もする。ただ本を開くとそこはヒュナム洞書店で、そこで本や人を眺めたり、ディスカッションに参加したり、時に誰かに声をかけられたりする、そういう体験だった。

 そしてそこで目にしたのは、立ち止まることの大切さ、悲しみとともに生きていく知恵、人間のたおやかな生命力、本だけが人に与えることのできる自由さだった。疲れた人、無気力な人、悩む人、だるい人、絶好調ではない全ての人に読んでほしい一冊だ。=朝日新聞2024年6月8日掲載

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 牧野美加訳、集英社・2640円。23年9月刊。6刷3万5千部。今年の本屋大賞翻訳小説部門第1位。「周囲の期待に応えようと頑張り過ぎて疲れてしまう、日韓共通でそういった国民性があり、共感を得ているのでは」と担当編集者。