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森田真生さん「センス・オブ・ワンダー」インタビュー 「きてよかったね」と思える世界をつくるために書き継いだ

森田真生さん=北原千恵美撮影

読むことは果てしない

――本作は森田さんが初めて手掛ける訳書です。森田さんにとって翻訳とはどんな作業でしたか。

 翻訳することは、ものすごく特殊なタイプの読書だと思いました。情報学者のドミニク・チェンさんが「読むことは書くことだ」と言っているとおり、ふだんの読書も本のテキストや思考を辿っていくうちに自分の中から何かが書き出されてしまっているわけですが、その作業をもっと厳密に、他の言語で読んだテキストを原作者が書こうとしていることに近い形の日本語で書き出す、というのが翻訳。今回、翻訳に初めて取り組んで何より感じたのは、読むことの果てしなさです。同じ散歩道でも何度も歩くたびに新しい発見があるように、一冊の本を読むということにも終わりがない。自分で文章を書くときは推敲を重ねて「できた」という瞬間、収束する瞬間があります。だけど、翻訳は原作者に近づこうとするんだけど、果てしがなくて、いつ終わりになるのかがよくわからないなと感じました。

――訳だけでなく、「そのつづき」として、自身の京都での暮らしの中でセンス・オブ・ワンダーを感じた出来事も綴られています。おもしろい試みです。

 「つづき」を書いてみようという発想は、ちょっとしたアイデアで出てきたというよりも、翻訳をしている過程で必然的にそうせざるを得ない感覚がありました。未完のテキストであって、カーソンがいずれ本にしたいと考えていたものであるからこそ、カーソンが実際には書いていないことを書いてみることが翻訳の一部のように思えたんです。

 いったんカーソンの原作テキストを離れて、14カ月の間、「つづき」を書いていました。それから再びカーソンのテキストと向き合うと、全く違うものに見えたんです。まるで自分の記憶や自分が書いたもののように思える場面すらありました。カーソンの言葉が自分の内から聞こえてくる。ここから翻訳の質が大きく変わりました。

――未完だからこそできるアプローチですね。

 そうですね。でも、未完だから完成させようということではなくて、未完だから続いていった、ということです。

 哲学者のティモシー・モートンと人類学者で作家のドミニク・ボイヤーが『Hyposubjects』という本のなかで、公園の砂場に壊れたおもちゃがあったら、それを見た人はきっと拾って遊び始めるだろうと書いています。例えば、足がない人形だったり、車輪の取れた車だったり、そういうおもちゃの不完全さが、次のプレイヤーを誘い込むだろう、と。未完成なものが、他の人の遊びを誘発する。自然界でも、古い木の幹は腐食してウロができることがありますよね。木そのものにとってはウロは朽ちて欠けてしまった部分でも、そこにコケがむしたりドングリなどの木の実が落ちて新しい芽を出したりと、他の生き物にとっては住処となり新しい始まりになる。あらゆるテキストも原理的にはそうした未完成性があって、だからこそ僕たちはそこから「読む」、すなわち「読んで書く」ことを始めていくことができるのだと思うんです。

視覚ではない回路を開いて、この世界を「見る」

――西村ツチカさんによる装画と挿絵も印象的です。日本で長く読まれてきた上遠恵子さんの訳本や海外版では、美しい自然の写真が使われていますが、イラストにしたのは何か理由があるのでしょうか。

 写真ではなくイラストにしたのは、僕自身の写真に対する先入観が大きいかもしれません。僕たちは視覚に頼りすぎてしまっていて、目に見えるものがすべてであるかのように感じてしまいます。でも、僕たちが生きている世界には実際は目に見えていないものがたくさんある。例えば、さっき見たスズメの足先に何億ものバクテリアがいても気がつかない。目を通して光として映像を受け止めたときに、既にいろんなものが取捨選択されてしまっているんです。でも絵だったら、この世界に共存しているけど僕たちには見えていないものを描くことができるんじゃないかと思いました。

 この本では、アメリカのメイン州(カーソンが大甥のロジャーと過ごした、『センス・オブ・ワンダー』の舞台となる場所)と僕が暮らす京都の東山を接続したり、70年前に書かれたカーソンのテキストを現代に書き継いだりと、ある意味、不可能なことをするわけです。

 書き継ぐことには連続性があります。連続性というのは、気づいたら全く違うものになっていることもあり得る。例えば、地球上の生命も単細胞生物にはじまり、(筆者を指して)いま、すごく多細胞化されているじゃないですか(笑)。

――はい、森田さんも(笑)。

 それも連続性なんです。断絶がなく滑らかに続くけど、全く違うものにもなることができる。そうした不気味さや一つの場に全く異なるものが存在している感じが、この世界にはある。地球というシステムを考えるうえでは、視覚的に世界を受けとめるのとは違う回路を開くことが大事で、それには絵の方が適しているのではないかと僕が思い込んでいる、というわけです。でも、もしかしたら写真でもできるのかもしれません。

いま必要なのはプラネット・イメージ

――カーソンの大甥であるロジャーが、満月の夜に月と海と大きな夜空を見つめてささやいた言葉、“I’m glad we came”を「きてよかったね」と訳したことは、今回の新訳の大きな収穫だったと思います。と同時に、この言葉を見て、私たち人間は地球にきてよかったのか、とも考えてしまいました。

 「ガイア仮説(地球を一つの生命体のような統合されたシステムととらえる)」を提唱した独立研究者で環境科学者のラブロックさんが人間の排泄行為、特に排尿について、おもしろいことを言っています。利己的に考えたら、体内で分解できなくなった窒素をガスとして空気中に放出する方が、生き物にとって大切な水分を失わないですみます。なのに、なぜ窒素を尿素という形にして、わざわざ水に溶かして体外に出しているのか。実は空気中の窒素は、ほとんどの生き物にとっては、そのままでは使えません。ところが、水に溶けた尿素であれば、植物がすぐに使える肥料になります。つまり、排泄という行為自体にある種の利他性があって、貴重な窒素を次の生き物にどう受け渡していくかが、すでに排泄のあり方のなかに組み込まれているんじゃないか、と言うんです。

 そういうふうに考えると、排泄だけでなく、僕たちが呼吸すること、食べること、要するに生きること自体が他の生き物たちが生きるための場づくりになっている。地球システムはすべて繋がっていますから、人間が生きることが何の役にも立っていないとすれば生きることはそもそも成立していないはずです。どんな生き物も生きること自体が場づくりとなっていて、ほとんどの生き物はそれを見事にやっています。

――どんな生き物も、この地球で生きている限り、生きることが役割なんですね。とはいえ、人間の活動によって生じた気候変動などの環境問題を放ってはおけない気がします。これから地球を生きるものたちが「きてよかったね」と思えるために、私たちに必要なことは何だと考えますか。

 人間の価値尺度の範囲内だけで「こうすべきだ」と、自分たちの行動を閉ざしてしまうことは違うのかなと思います。まず、生きることが僕たちにできる一番基本的な貢献です。自分たちのせいで地球環境が悪くなっていると心を痛めることができるのであれば、同じ想像力で、自分が生きているだけで、救われているいのちがあることをもっと感じてもいい。どちらも真実なんです。

 そのうえで、地球に対して僕たちはこれから、身体に対して感じているようなリアリティを感じられるようになっていくのではないかと思います。僕たちは自分の身体をどう扱えばいいかは完全にはわかっていない。でも、疲れたら寝る、おなかの調子が悪かったら温かいものを飲むなど、やりくりしています。そうしたボディ・イメージと同じように、僕たちは地球というシステムに対して、プラネット・イメージみたいなものを持てるようになっていくのではないか。何千年もかけて僕たちは、自己の存在と身体を結びつける認識を育んできましたが、自分の存在を身体にだけ閉ざしてしまう発想が、地球システムと噛み合っていないことがいろいろな問題を生んでいるのだと思います。

――プラネット・イメージの感覚をみんなが持てるようになれば変わってくる、と。

 それには、言葉の力がとても大事になります。物事を科学的に探究していくことは重要ですが、科学的方法だけでは、身体感覚にまでなかなか至らない。あらゆる分野の科学的な論文をすべて理解できる人なんていなくて、自分の専門と違う領域の論文だと特に、読んでも実感はほとんど湧かないですよね。カーソンがすごいのは、専門的な論文をたくさん読んだうえで、専門家ではない人が読んでも「地球は海の惑星なんだ」と実感が持てるような、詩的で美しい言葉で海や地球について、何冊もすばらしい本を残したことです。それが人の感情を動かし、人の感覚を変えます。そういうことが今回の本でもできていれば、うれしいですね。

【じんぶん堂の記事より】「そのつづき」として綴られたエッセイ「僕たちの『センス・オブ・ワンダー』」より冒頭部分を公開中