認知症発覚のきっかけは車
――しっかり者の義母に認知症の兆候が表れたのが2016年のこと。でも「レビー小体型認知症」という診断が下りたのは2019年の秋。それまで危うくも生活をこなせてしまうところがリアルでした。受診しなければ、と思うきっかけは何だったのですか。
車の運転です。車をどこに停めたかわからなくなったり、逆走して自損事故を起こしたり。これは危ない、と思っているうちに義父が軽度の脳梗塞で倒れ、義母はその日を境に急激に悪くなってしまったんです。よく映画やドラマで「衝撃のあまり自分の名前を忘れてしまった」っていうシーンあるじゃないですか。ほんとかなって思っていましたが、義母がまさにそうで。別人のようにぼーっとしていました。
ただ、最初の認知症のテストでは、「これだったら認知症とは言えない」という結果でした。義母はそもそも、頭の回転が速く、数字にも強く、掃除や料理もなんでも完璧にこなせる人なんですね。「100から7ずつ引いていく」といった問題も、ばんばん答えられるんです。だから、家族も認知症だと確信するまで時間がかかってしまいました。
おかあさん自身も苦悩していたようで、後になってたくさんのメモが見つかったんです。薬局への行き方を「〇〇を左に入って、〇〇の前を右に」とすごく細かく書いていて。ほかにも、自分の生年月日や名前、「車の鍵をなくしてしまった、どうしよう」とか、「理子ちゃんの電話番号は〇〇」とか。今までギリギリのところで頑張っていたんだな、と切なかったです。
「好奇心」があったから続けてこられた
――本書の中で、義父母の介護を引き受けた理由として、ひとつ目が「書く者としての好奇心」、ふたつ目が「義母へのシスターフッド」と書かれていました。まず、ひとつ目の「好奇心」について、介護のどういうところに惹かれたのですか。
まったく未知の領域であるところです。いろんな専門用語が出てくるし、ケアマネさんがどういうタイプの人なのかとか、ヘルパーさんにはいろんな種類があるとか、単純に知らないことを知っていく面白さがありました。
そして、義両親を見て、人間はこう変わっていくものなのかという興味もありました。たとえば、「認知症」って日本語では「ボケる」と言うから、ぼーっとしている姿を想像するじゃないですか。でも実際の義母を見ていて、全体の機能が一気に鈍化するのではなくて、断片がぽろぽろと抜けていくのだと知りました。ご飯を食べる順番がわからなくなったり、お箸を使うべきところでフォークを使ったりとか。それを「興味」と言ってしまうと、義母に申し訳ないのですが、やっぱり私の癖でつぶさに観察して記録してしまった。でもそれがあったから、なんとか介護を続けられたと思います。
――ふたつ目の「義母へのシスターフッド」ですが、かつては結婚の反対されるなど軋轢もあったおかあさんに、「シスターフッド」という気持ちが芽生えたのはなぜでしょうか。
おかあさんはいつもきちんとした身なりをして、お化粧もしっかりして、嫁から見ても美しい人だったのに、そういうことが全くできなくなっちゃったときに、同じ女性として気の毒に思ったんです。私がいちばんショックだったのは、食べカスが襟もとに付きだしたとき。いつも真っ白でぴしっと糊付けされていたエプロンも、真っ黒でお風呂マットみたいになってしまって。そういうところは私がカバーしてあげないと、と自然に思っていました。
もうひとつは、義父の義母に対する苛立ちが見ていて理不尽で。それまで完璧に家事をしていた義母が認知症になって、義父は、綺麗な靴下がないとか、皿も洗ってないとか、そういうことで怒っているんです。家事をしなくなったらその人の価値はなくなるのか、自分がやったらいいじゃないか、と義憤に駆られました。
介護で感じた性差別
――ほかにも、女性のケアマネージャーに対して義父が威圧的な態度をとったり、性差別を感じるエピソードが出てきますね。
そうなんです。義父が当たり散らしていたのは、やっぱり相手が女性だったからだと思うんです。だから数少ない男性の介護士をなんとか見つけてバランスを取ろうとするのですが、今度は異性がくることで義母の恋愛妄想が始まり、それに義父が嫉妬して……本当に難しい。
また、夫婦で介護を分担するときに、圧倒的に妻側がメインになることが多いのもおかしいと感じます。自分の親でなくてもなぜか妻のほうが介護の担い手になっている。そこは実子である夫がメインで行くべきですよね。で、妻の両親の介護になったとき、夫がやるかというと、たぶん何もやりませんよね。やっぱり古い家制度が根強く残っている。
――村井さんも、夫に対して「あなたの親なんだからやってよ」とはならなかったんですか。義両親に対して、ほんとうによくやっているなと思って……。
そう思っていただけるのは嬉しいです。これには取引があったんですよ。「介護は頑張るけど、その代わり、これは私にとっても新しい挑戦だから細かくエッセイに書くけど、いい?」って。夫はちょっと考えて「いいよ」って言ったんです。
介護って初期は9割、事務仕事なんですよ。書類を集めたり、スケジューリングしたり。実際に体を使ってやる介護はほとんどない。だから、どうにかやれたんですよね。ただ、この1年は介護度があがって、メインの担い手を夫にバトンタッチしました。
――よくバトンタッチできましたね。
それは、うちのケアマネさんがきっぱり言ってくれたんです。「ここからお嫁さんに判断してもらえることはない。実子の出番です」って。夫婦間での話し合いじゃなくて、第三者で、しかもプロが夫に言ってくれたのは大きいですね。
実親にもしてあげたかった
――村井さんは介護の疲れから腎盂腎炎になって、「こんな生き方もうやめます」宣言をします。その後、ご自身のケアはどうですか。
今はとにかく寝ていますね。だから原稿はめちゃくちゃ遅れてます(笑)。あと、イヤなことはやらないと線引きしています。今、義父母宅の滞在時間は3分くらい。義父は気を抜くとすぐ長い愚痴が始まるんですが、「うんうん、それはつらいですね、じゃっ」とすぐ切り上げています。書くことを天秤にかけても、今は自分にマイナスしかないなと思ったときは「今週は行かない」と夫にはっきり言って、任せるようになりました。
――義母の誕生日を祝いながら、亡きご両親のことを思い出すエピソードがありましたが、義父母の介護を通して、ご両親のことをどんなふうに考えましたか。
どうだったらいい人生と言えるのか、わかんないです。うちの父は若くして亡くなり、母はシングルマザーでかなり苦労したんです。その母もすい臓がんであっという間に亡くなりました。一方、義父母はある程度恵まれた人生を歩んできて、大きな家もあり、裕福な時代もあったというのに、今ではガタガタと崩れて、息子と娘なしでは生活を営めない。何が幸せと言えるのかは、難しい。
でも、それでもやっぱり、生きていた方がいい。辛いこと、嫌なことがあっても、途中でぶつっと切られる人生より。
この本に書きましたが、義母と昭和の名作ドラマを並んで見ながら、なぜこのような時間を自分の母と過ごすことができなかったんだろう、と悔やみました。母は亡くなる直前まで兄と住んでいたんです。今思えば、もっと私が介入すればよかったのですが、兄に散々迷惑を掛けられてきたので、距離を置いてしまいました。
義父母は今、「理子ちゃん、理子ちゃん」と本当に私を頼りにしてくれるんです。喜ぶ姿を見ると、母にもこうしてあげたかったなと思います。
義父にかわいいシャツを着せて
――介護を通して、義父母との関係はどう変化しましたか。
義母のことは「かわいい人だなあ」と思うようになりました。何かと家に押しかけてくる強烈キャラだったのですが、あれは生きるために鎧をつけていただけで、今のおかあさんはあっけらかんとしていて、ずっと笑顔だし、プラス思考なんですよね。この姿が本当の姿だったんだな、とわかって姉妹のように仲良くしています。
義父の暗い性格は相変わらずですが、この歳になってそうそうプラス思考に切り替えられないよなあ、とも思います。「今まで頑張って生きてきて、こんなことになるとは夢にも思わなかった」って言いながら泣かれたりすると、やっぱりかわいそうだなって思います。頷きながら、すぐ切り上げますけどね(笑)。
でも、最近はおとうさんに可愛いらしい服を買ってあげるようにしているんですよ。カラフルなポロシャツとか、ピンクのシャツとか着せて、髪の毛もこまめに理容店に行かせて、小綺麗にしていると、なんかちょっと許せるんですよね。おとうさんも嬉しそうだし。
――実の親じゃないからこそできる介護というのもあるのでしょうか。
絶対にそれはあると思います。介護って一生懸命やればやるほど、実子は思い通りにならない親の姿に苛立ってしまったり、親を囲い込んで外部の支援を断ってしまったり。ある程度、ビジネスライクにしたほうがうまくいくことが多い。
たとえば、義母が夫の高校時代のジャージを着ていたとき、私は大爆笑したんですけど、夫はガクッときてしまって。受け取り方が全く違う。実子じゃないからこそ、状況を面白がれるところがありますね。この「面白がれる」ってじつはすごく重要で、それで続けられたように思います。
――村井さんちの介護はこの先、どうなるのでしょうか。
今は特別養護老人ホームの順番が来るのを待っている段階です。入居にあたってはまた色々大変なことになるのだと思いますが、でも、少し出口が見えてきました。ここからは実子である夫に頑張ってもらおうと思います。実の親子が煮詰まったときのために私は後ろで控えていようと思います。