きっかけは阿部サダヲさん主演のドラマ「広重ぶるう」(NHK)を見たことです。広重を愛し、支え続けた優香さん演じる加代に心を奪われました。
生まれ育った江戸の町に惚(ほ)れ、「名所絵」を描き続けた浮世絵師・歌川広重。江戸と京を結ぶ東海道の各宿場の風景を描いた連作「東海道五十三次」に代表されるように、現代から見れば「広重か葛飾北斎か」というほどのビッグネームです。ところが、史実によると、広重は最初から売れた方ではなかったようです。
美人画を描いても「色気がない」、役者絵を描いても「似ていない」。世間からそんな酷評を受け続け、妻・加代と共にひもじい暮らしを強いられたそうです。
もともと広重は、江戸の消防にあたる「常火消(じょうびけし)」の同心(役人)の家に生まれ、家督を継ぎました。絵心の才能を伸ばそうと15歳のころ、人気を博していた初代歌川豊国の門に入ろうとしたものの断られ、豊国と比べると地味な歌川豊広に入門。その後、浮世絵師として独り立ちしました。しかし、絵が飛ぶように売れるようになったのは、それからだいぶ経ってから。長い間、絵師と火消しを兼業していたそうです。天保年間に名所絵を手掛け、ようやく人気が出て、浮世絵師としての地位を確立したのです。
梶さんの物語を読み進め、強く感じるのは、広重という浮世絵師の人生だけでなく、浮世絵の制作過程と、それに関わる人々が立体的に立ち上がってくることです。板木を起こす職人・彫師(ほりし)、版木に絵具を広げて和紙に摺りこみ、色を重ねる職人・摺師(すりし)、今でいう編集者にあたる版元(はんもと)。それぞれの矜持に満ちた作業があってこそ、やっと1枚の絵ができあがるのです。
絵師ひとりの意思だけで画題や「絵組み」を決められるものではありません。どんな高名な絵師であろうと、「町狩野」(在野の狩野派の画家たち)であろうと、結局は金主(きんしゅ)がいて、その人の注文のもとに描くのですね。こうした形態は、洋の東も西も問わず、誰かが注文し、絵描きは要望通りに描かなければいけない。たとえそれが、自らの思いとは異なる方向であっても、です。
アーティストというと、気ままに自分の好きなものを続けるように見えますが、その境地にたどり着けるのは、それこそ葛飾北斎ぐらい。彼のように突き抜けて、名声と実績を勝ち得た人だけができることです。広重はむしろ、職人としてまっとうした人だった、ということが、この小説から伝わってきます。
「何だか、今にも通じるな」と思いました。僕が現在取り組んでいる仕事と、まったく変わりません。僕自身、役者や司会業を、どこかで「職人」だと思っている側面があります。勝手気ままに、自分の好きなことだけやるなんてできません。その代わり、与えられた役割、いただいた仕事に対し、矜持を持って臨みます。「ここまでは譲れるけれど、それ以上は譲れない」。そういう意識はつねに持って取り組んでいます。時代が変わっても、仕事とはそういうものなのかもしれません。改めて気づかされます。
朝風呂と旅を好み、江戸を愛する広重。そんな彼のことを支え、愛した人の息づかいがたくさん感じられるのも、この物語の味わいです。妻、師匠、版元、摺師、友。彼はとても思われています。喜怒哀楽が豊かで、不器用で嘘をつかない。つねに正直で生きている広重だからこそ、周囲に愛されるのでしょう。人に恵まれ、背中を押されている。
ここでもふと、わが身を思い返しました。マネジメントをしてくれる人がいて、番組を一緒につくる人たちがいて、役者の世界に導いてくれた人がいて、芽が出るまで支えてくれた人がいる。それなのに、とかく、自分の実績は自分の力だけで築いてきたと錯覚してしまいがちです。周りの人に助けてもらって、どうにかここまでこられたこと。助けがあるからこそ、今、仕事や生活が回っていること。それを、改めてかみしめました。
広重は、いわゆる「町絵師」の中でも武家上がりの絵師です。だからでしょうか、筆や硯(すずり)の位置が変わっただけでも、気になってしまう几帳面さが描かれています。彼のバックボーンも大きく影響しているのでしょう。江戸の町を火から守ることに心血を注いだ広重だからこそ、市政の人々の暮らしや、江戸の町そのものに思いを馳せ、他の絵師よりも、どこか俯瞰して風景を眺めている。広重は、「人のことが描けない」と嘆き続けますが、それはきっと人の見方、捉え方が異なるのだと思います。大胆な画風の北斎とは異なる、繊細な画風をつくり上げる所以となったのかもしれません。
こんな場面があります。湯屋で放歌高吟にふける広重に、なんと北斎が会いに行く場面です。「東海道五十三次」が大当たりし、湯屋でおごり高ぶった言動に走る広重に、70を過ぎた北斎はこう語ります。
「おれとおめえさんとは同じ風景を見ても、まったく別な画になるんだよ。それは絵師がどこをどう描きたいかの違いだ。前にもいったが冨嶽は名所絵なんかじゃねえ。ありゃ富士の揃い物だ。おめえさんのように名所で名を成すなんてことは、おれにはいっかな興味がねえこった」
「自分が見たい富士山を描く」。北斎はそう語ります。遠近法を用いて、リアリティを貫く広重とは、姿勢が大きく異なるため、北斎の一言に広重は激高するのですが、そんな彼自身ものちには、「何を取捨選択し、どんな絵組をつくり上げるか」という見方にシフトチェンジしていく。そんな変化もこの小説の読みどころです。
たとえば北斎の名作「蛸と海女」のような大胆で妖艶なアイディアは、広重には到底思い浮かばないかもしれません。けれども、広重の「東海道五十三次 日本橋 朝之景」のように、橋をドーンと中央に大きく描く図案は、ただ見たままでは描けません。春夏秋冬、花鳥風月。空気をつくって風を起こし、そこで暮らす人々を描き、観る者を旅する気にさせていく。創意工夫を凝らしていくさまに感銘を受けます。特に、広重と二人三脚のように絵をつくる摺師・寛治が思いつく、あるアイディアには、度肝を抜きます。
そして、広重の人生に大きな影響を与える災害、安政の大地震がやってきます。瞬く間に火は江戸の町をのみ込み、町が崩れていく。怒り、悲しみながらも、「本来の江戸」を取り戻すかのように、広重は地震の数カ月後に浮世絵連作「名所江戸百景」に取りかかります。縦長に風景を切り取る大胆な構図の絵を、ひたすら描き続けるそのさまは、甚大な被害を出した江戸に対する彼の思いが、痛切に伝わってきます。これは、「『名所江戸百景』が、江戸の復興を願う思いで描かれた」という通説に基づくものです。最近も、大きな地震が日本を襲いました。壊されても、焼かれても、残されたみんなが町を再びつくり上げてきた、そんなこの国の歴史に思いをはせずにはいられません。
一世一代の大仕事に、彼は亡くなるまで取り組みました。単なる歴史、偉人ものではなく、人情の世話物という側面も強く、広重の江戸への思いが際立つ素敵な作品です。タイトルの「ぶるう」は広重が愛し、作品に多用した、鮮やかな青色を指す言葉。ベルリンからやってきた顔料「ベロ藍(紺藍)」に由来しています。
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梶よう子さんは『北斎まんだら』 (講談社文庫)という物語も書かれています。信州・小布施の豪商の息子・高井三九郎(高井鴻山)が、葛飾北斎の弟子になるために江戸へやって来て、彼や彼の周囲の人たちに翻弄されるお話。北斎は100回近く引っ越しを繰り返したそうですね。変わった人です。絵のことしか考えていない北斎の「人となり」も、三九郎の目を通して描かれます。(構成・加賀直樹)