今年もノーベル文学賞の季節がやってきた。毎年10月の第1か第2木曜日に発表するのが通例になっている。今年は10月10日(木)の日本時間午後8時から。インターネットで公式サイトにアクセスすると、アナウンスの生中継が見られる。
ノーベル文学賞の時季というのは、日本で外国文学(翻訳文学)が大注目される年に1度の機会だから、お勧めの作家、作品をたくさん紹介していきたい。出版界はこの期間を狙って、ノーベル文学賞受賞作家や候補とされる作家の翻訳書を怒涛のごとく刊行するので、それもまとめて後半で紹介する。
いま読みたい2冊はこれ!
今月ぜひ紹介したいのは、2024年に刊行された海外文学のなかでも最も衝撃的な、パレスチナの女性作家アダニーヤ・シブリーによる小説『とるに足りない細部』(山本薫訳、河出書房新社)と、ノーベル文学賞の呼び声もあるルワンダ生まれのフランス語作家スコラティック・ムカソンガ『ナイルの聖母』(大西愛子訳、講談社)だ。どちらも戦争を題材に、世界を分断する憎しみという暗い精神の淵に分け入っている。
シブリ-の『とるに足りない細部』は2017年に刊行され翻訳されると、国際ブッカー賞、全米図書賞翻訳部門という英米の二大翻訳文学賞の最終候補になり、さらに欧米圏以外の女性作家を対象にしたドイツのリベラトゥール賞を授与された(同賞は日本の若竹千佐子も『おらおらでひとりいぐも』で受賞)。
ところが、昨年10月にフランクフルト・ブックフェアで行われるはずだった授賞式は、イスラエルによるガザ地区への攻撃が激化するなかで、主催者側に一方的に中止されたという。主催団体およびブックフェアは「イスラエルへの完全な連帯」を表明した。
2部構成の本作、第1部の舞台は1949年のネゲブ地方。一人のベドウィン(アラブ系遊牧民)の少女がイスラエル軍部隊によって囚われ、レイプされ、殺害されるという事件が起きた。1949年と言えば、イスラエル建国と、それに伴いパレスチナ人が土地を追われ難民になった「ナクバ」の翌年だ。
事件現場のあたりには、かつてニリムという入植村が存在した。1948年のイスラエル建国の翌日、建国を阻止しようとしたアラブ諸国との間で第1次中東戦争が勃発した際には、最初の戦闘地にもなった場所であり、また、2023年10月に攻撃の対象となったガザ地区外縁部の入植村と軍基地がある辺りでもある。
この地にはイスラエル軍の戦勝を讃える記念碑が建つ。そのような場所でベドウィンの少女は部隊にレイプされ、殺害されたのだ。第1部は、「アラブ人の残党を一掃」すべく一帯をパトロールしている部隊の将官、つまり少女を凌辱し死に至らしめた人物の視点で描かれている。
その3人称語りはまったく人間みを欠く。唯一ときおり感じられるのは、小隊長の鬱屈と、うっすらした恐怖だ。彼は序盤で睡眠中に毒虫に咬まれ、その傷がなにをやっても悪化し、膿み崩れていくのである。狂ったように、幾度も咬傷を消毒し、軟膏を塗りたくり、体を洗って、清潔な衣服に着替える。しかし傷の化膿は止まらない。どこかヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」を思わせる精神と肉体の腐敗。ただしこの男の心は清澄な山の根雪に洗われることはない。
第2部は、パレスチナ自治区ラマッラに住む若いパレスチナ人女性の一人称語りだ。つまり、1部と2部は正反対の立場から書かれている。2つの部を切り結ぶのは、渺茫たる砂漠の光景と、犬の鳴き声と、「横になる」という動作、そして不気味な静寂……。
第1部から25年後の1970年代。第2部の語り手はこの殺害事件を新聞記事で知り、自分の誕生日に起きたという偶然性もあって、真相の追究に夢中になる。事件の現場となる地域の古文書館や博物館を訪ねて調査しようとするが、そのためには、居住地の「A地区」から「C地区」まで行き、イスラエルの領土に入る必要がある。
彼女は知人のIDを借り、またべつな知人のクレジットカードを使ってレンタカーを借り、パレスチナ製の地図とイスラエル製の地図の2種類を見ながら旅をする。そこに書かれている地名の違いに戸惑うが、自分たちの歴史の真相を追い求める彼女もまた、べつな名前と身元を名乗っているのだ。真相は捉えようとしても逃げていく。
これは「境界」をめぐる小説でもある。第2部の語り手は、何がしていいこと、してはいけないことなのかわからないと言い、つねに「とるに足らない細部」に魅入られる性質がある。そのために、ふらふらと「境界線」を踏み越えてしまうのだ、と。しかし、とるに足らない細部とは、その人間をその人間たらしめている標だ。絵画の真作と贋作の違いは最も些細な部分に現れるというくだりが印象的である。
大虐殺にも重なる「いじめ」の精神構造
ムカソンガの『ナイルの聖母』は1979年頃のルワンダを舞台にした学園ドラマだ。山の上のエリート女子寄宿学校「ナイルの聖母学園」での毎日が描かれ、ある意味、他愛ないムードで始まると言っていい。多数派フツ族の裕福な家の娘であるボスキャラと、その取り巻きがいて、彼女たちに見下されている少数派ツチ族の女の子たちがいる。生徒数からいえば、ツチ族はお印程度である。学校が自分たちの「寛容さ」を見せるために入学させているのだ、と。
燻ぶる憎しみといじめ。それが一気にエスカレートするきっかけは悪ふざけのようなものだ。グロリオザという女子リーダーが、学園の黒く塗られた聖母マリア像の鼻がツチ族に似ていると言いだす(ツチ族はニグロではないという見方があった)。彼女が鼻を取り替えようとするうちに頭ごと叩き壊してしまい、有力者である彼女の父のつてで新たな聖母像が作られることになる。
その際に彼女はこんなスピーチを行う。「彼らは共産主義者、無神論者です。彼らは悪魔の命を受けているのです。〈中略〉わたしが皆さんに言いたかったのは、ここに新しいナイルの聖母像が来るということです。それは本物のルワンダ人、多数派の民の顔をした聖母です。フツのマリアです。〈中略〉でも、わたしたちのリセは、みなさんもご存じのようにまだ寄生虫でいっぱいです。不純物、汚物がこのリセを真のナイルの聖母を受け入れるのにふさわしくない場所としているのです。わたしたちは急いで任務に携わらなくてはなりません。あらゆる場所の隅々まで清掃するのです」-
ツチ族を「イニェンジ(ゴキブリ)」と呼ぶ彼女はすでに小さなヒトラーだ。この差別と偏見とヘイトの精神機構こそが、あの1994年に起きたルワンダの大虐殺につながったことが、恐ろしいほど鮮明に露見するのである。「いじめ」などと軽く称されるもののなかには、人の尊厳と命を奪う力が充分にあるのだ。 ちなみに、ムカソンガはこの大虐殺で親族を27人失ったという。
ラテンアメリカ文学ブーム、スペイン語圏に注目
この時季に出版される翻訳文学は壮観なので、紹介しておこう。
昨年のノーベル文学賞受賞者ヨン・フォッセの中篇3作をコンパクトに楽しめる『三部作 トリロギーエン』(岡本健志、安藤佳子訳、早川書房)や、『朝と夕』(伊達朱美訳、国書刊行会)。アニー・エルノーの自伝的作品集『若い男/もうひとりの娘』(堀茂樹訳、早川書房)。オルガ・トカルチュクの絵本『個性的な人』(絵・ヨアンナ・コンセホ、小椋彩訳、岩波書店)。第1次大戦下で極限状態にあるセネガル兵の心理を描きだし「高校生が選ぶゴンクール賞」を受けたダヴィド・ディオップの『夜、すべての血は黒い』(加藤かおり訳、早川書房)。老いと復讐をテーマにしたマーガレット・アトウッドの短篇集『老いぼれを燃やせ』(拙訳、早川書房)。戦禍のウクライナを舞台にしたアンドレイ・クルコフの『灰色のミツバチ』(沼野恭子訳、左右社)などなど大変な豊作だ。
アンドレイ・クルコフは『ペンギンの憂鬱』で日本でも人気の作家だが、ウクライナ東部ドンバス地方の「グレイゾーン」(ウクライナ側でも親ロシア側でもない治外法権的な領域)での紛争を背景にした『灰色のミツバチ』が、アメリカ、フランス、ギリシャなどで次々と国際文学賞を受けており、注目度が高まっている。「灰色」を思わせる名のセルゲイチという養蜂家がほぼ無人になった地帯に蜂たちと暮らしているが、蜂の安全を守るために戦場を横断する旅に出る。戦火の下における個人の抵抗が描かれる。
また、わたしが近年推しているのは、スペイン語圏の女性作家だ。日本ではガルシア=マルケスの『百年の孤独』文庫版が大ヒットしているが、世界文学シーンにはここ暫くラテンアメリカブームが再来している。とはいえ、ガルシア=マルケス、コルタサル、サバト、フエンテスといった男性作家が牽引した1960-70年代のブームとは違って、中心的役割を担っているのは主に女性作家だ。バレリア・ルイセリ(メキシコ)、グアタルーペ・ネッテル(メキシコ)、フェルナンダ・メルチョール(メキシコ)、マリアーナ・エンリケス(アルゼンチン)といった作家の名はぜひ覚えておいてほしい。
とくに、『七つの空っぽな家』で全米図書賞翻訳部門を受けたアルゼンチンのサマンタ・シュウェブリンなどはトップランナーと言えるだろう。新刊訳書『救出の距離』(宮﨑真紀訳、国書刊行会)はスパニッシュ・ホラーの傑作。優れた幻想・奇想・ホラー小説に授与されるシャーリイ・ジャクソン賞を受けているが、まさにジャクソンの『絞首人』などを髣髴させる技法と夢のタッチをもつ。
舞台は大豆畑の広がるブエノスアイレス郊外の村。一人娘をもつ中年女性アマンダはなぜか瀕死とおぼしき状態で伏せっている。その横、耳に息がかかるぐらいの近くで話をしているのは、アマンダの友人カルラの9歳の息子ダビだ。2人の不思議な問答のようなものがつづく。ナラティヴは断片的で、気がつくとタイムラインがシフトしており、なにが現実でなにがせん妄による夢想なのか、どの言葉がだれのものなのか、直接話法なのか伝聞なのか、判然としがたい。
カルラによれば、ダビは幼いころ川の水に毒され、身体が腫れあがる恐ろしい症状で死にかけたという。しかし「〈緑の家の〉女先生」の存在に頼り、生き延びたが、そのため彼の魂の一部は別なだれかに「移行」され、そのだれかの一部がダビに宿っている。
アマンダは母親として、娘ニナの行く末が心配でならない。なぜアマンダは死にかけているのか。それは精神性のショックなのか、肉体的なダメージなのか。そもそもダビはなにに毒されたのか? そこには環境破壊や農薬公害の問題が浮かびあがってくるだろう。なにも確定できないテクストを読むうちに、読者は自らのなかに物語を増幅させ、恐怖を募らせる。「虫」があなたの体に入り込む。
一つの解釈や結論を押しだす「シングルストーリー」による告発小説ではない。見つめるのは人間の中にある毒と弱さである。ぜひご一読を。
見逃せない東欧・中欧、アジアの作家
東欧・中欧で私がお勧めしたいのは、日本居住歴もあるハンガリーのラースロー・クラスナホルカイ(邦訳が手に入りにくくて残念)、代表作の『ノスタルジア』のも昨年邦訳されたルーマニアのミルチャ・カルタレスク、アジアでは余華、閻連科、残雪といった中国の作家たちだ。
アジアではインドも豊穣の地だ。『小さきものたちの神』で知られるアルンダティ・ロイ、ラシュディも絶賛する『デリーの詩人』の著者アニター・デサイなどがいる。そして、最後に日本語作家について。多和田葉子、小川洋子は、他国語への翻訳も着々と進み、評価とプレゼンスが確実に高まっている。村上春樹旋風は海外では落ち着き気味だが、この11月には最新作『壁とその不確かな壁』の英語版が刊行される。英米は日本と逆で若い読者のほうが翻訳文学をどんどん手に取るようになっているし、日本語文学は今後ますます読者を広げるはずだ。