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『「それ」のあったところ』 「書くことは野蛮」越えた4枚 朝日新聞書評から 

評者: 椹木野衣 / 朝⽇新聞掲載:2024年11月02日
「それ」のあったところ: 《ビルケナウ》をめぐるゲルハルト・リヒターへの4通の手紙 著者:ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 出版社:新曜社 ジャンル:アート・建築・デザイン

ISBN: 9784788518568
発売⽇: 2024/09/05
サイズ: 12.8×18.8cm/296p

『「それ」のあったところ』 [著]ジョジュジュ・ディディ=ユベルマン

 哲学者アドルノによる「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」は、詩人のみならず、以後を生きるすべての表現者に大きな困難を背負わせた。ひとつの民族をこの世界から抹消しようとしたヒトラーの蛮行は、それを経てなお、かつてと同じように芸術にいそしむことに根源的な疑問を突き付けた。
 事実、世界最高峰と称されるドイツの画家、ゲルハルト・リヒターでさえ、アウシュヴィッツを「描く」のに、題材となる写真と出会ってから60年もの時を要した。リヒターが重い腰を上げるきっかけとなったのは、本書の著者であるフランスの哲学者ディディ=ユベルマンによるアウシュヴィッツ論だった。
 本書は、著者が、まだまっさらな画布しかなかった画家のアトリエを訪ねてから、ついに4枚の絵画が描かれ、各所で展示されるに至るまでに、画家に送った4通の手紙をまとめたものだ。リヒターによるこの困難きわまりない達成をめぐる成否については、本書のなかで、考えられる限りが尽くされているので、ここで立ち入ることはしない。それより本評で重要なのは、母語を異とする著者(仏語)から画家(独語)へと向けられた4通の手紙が、日本語として私たちのもとに届くということについてである。
 訳者あとがきによると、この4通の手紙が最初に世に出たのは、独語版の書籍(もとはリヒターが読むために訳された)であり、本書の翻訳もこれを底本としている。だが、原文の仏語による論文を調べたところ、随所で異同が見つかったため、日本語版は一部で独語版と仏語版とを往復しながら訳した「ハイブリッド」が生じている。だが、これをたんに翻訳の工夫として済ませられないのは、ユベルマンの祖父母がアウシュヴィッツで命を落としており、二つの言語とのあいだに、被害者と加害者の言語という非対称性が生じているからだ。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所から名を取り「ビルケナウ」と名付けられ、2022年には日本でも公開されたこの4枚の絵画は、一見しては抽象画にしか見えない。だが、実際には絵具の層の下に「核」として4枚の写真を描いた具象画を潜ませており、ユベルマンはそれらの「写真」が絵具の層の下で「どのように生き延びているか」について問うている。同じ問いは、ユベルマンによる原文が、独語版をもとに日本語に翻訳された本書のなかで「どのように生き続けているか」についても言える。訳者もまた、リヒターと似た困難のもとに本書を世に出したのだ。
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Georges Didi-Huberman 1953年、フランス生まれ。哲学者、美術史家。著書に『ヒステリーの発明』など。