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楳図かずおさん追悼 異彩放った巨匠「飛べる話を描きたかった」 2009年のインタビューを初公開

楳図かずおさん=2022年、横関一浩撮影

――楳図先生が『森の兄妹』でデビューしたのは高校卒業直後の18歳。その後、貸本マンガ家として活躍し、東京オリンピックを翌年に控えた1963年に上京したのでしたね。

 上京したのは27歳になる直前。最初は池袋に住みました。当時「マンモスプール」があったので、運動不足にならないように泳ごうと。まだ講談社との縁はなかったので、講談社と(近いこと)は関係ありません。

 講談社との仕事は、「少年マガジン」よりも「少女フレンド」のほうがちょっと先でした。『ねこ目の少女』などの恐怖マンガを発表した後、すぐに「マガジン」からも声をかけられたんです。細かい話は覚えてないけど、「怖いマンガを描いてくれ」という依頼だったと思います。それで始めたのが『半魚人』。

 少年誌はこれが初めてでした。「少女誌ばかりは嫌だなぁ」と思っていて、少年誌にも描きたいとずっと思っていたんです。特に当時の「マガジン」と「サンデー」は“大メディア”という印象でしたから、嬉しかったですね。男の子雑誌ということで、男の子を主人公にして、絵柄も少年マンガっぽくしましたが、あとはそれほど意識しませんでした。

 最初の担当が誰だったかは覚えていないんですが、印象が強かったのは宮原(照夫)さん(第4代編集長)。もう副編集長だったから、直接の担当ではなかったかもしれません。ハイテンポな人が多い中、あわてず、うろたえずのテンポで、いつも落ち着いていられた印象が強いですね。

――「マガジン」で『半魚人』を始めてからも、「少女フレンド」は続けたのですか?

 ええ、続けましたよ。講談社の週刊誌2本、同時連載です。忘れられないのはその年、昭和40(1965)年の暮れのこと。「少女フレンド」では『まだらの少女』を連載していたと思うんですけど、「正月だから繰り上げて描いてくれ」と言われたんです。年末進行ですね。しかも当時は合併号がなくて、お正月もふだん通りに休まず出ていたんですよ。だから、1週間に4本描かなきゃいけなくなって。初めて、週刊誌の大変さを実感しました。

――1週間に4本! 今では信じられない話ですね。

 僕は上京する前、不眠症でたいへん苦しんだことがあったので、どんなに忙しくても徹夜はしないと決めていました。でもアシスタントを雇うのは翌年「ウルトラマン」を始めた頃からで、その頃はまだ独りでやってましたから本当に大変でしたね。起きてる間はずっと仕事をして、なんとか間に合わせました。

「ウルトラマン」をコミカライズ、資料が少ないのが幸いに

――TBSで「ウルトラマン」の放送が始まったのは1966年。その年、楳図先生は「少年マガジン」でコミカライズを担当しています。

「ウルトラマン」は子ども向けの感じがあったので、最初はとまどったんですよ。でも、その頃は恐怖マンガ以外にもいろんな分野をやって、マンガ家として幅を広げたいという気持ちが強かったし、「僕ふうのやり方もあるかもしれないな」と思って引き受けることにしたんです。

 連載を始めたのは、まだテレビ放送が始まっていない頃。台本があって、写真が数枚あったくらいで、資料はほとんどありませんでした。どなただったか記憶がないんですけど、担当編集者の方と2人でTBSに行って、試写を1回観たんですよ。「バルタン星人」の回でした。

「マガジン」には、テレビで30分の1話を7回くらいに伸ばしてやってほしい、と言われました。ただし、ウルトラマンは最初から出してくれと。だから話を作り変えないといけなかったんだけど、元のストーリーがあるわけだから、引き伸ばすのはそれほど苦ではなかった。

 ストーリーはね、少し怖い感じになってるんですよ。当時はホラーで売れていたわけですから、「ウルトラマン」といっても、楳図が描く「ウルトラマン」にしないと。ちゃちい感じでやるとファンがついてきてくれないだろうと思ったので、手触りとして「怖い感じ」は外したくなかったんですね。

――確かに、「バルタン星人」の回なんて、ほとんどホラーマンガになっていました。

 いちばん困ったのは「ウルトラマンの背中」ですよ。もらった写真の中に背中が写っているものがなかったんです。それから、バルタン星人は試写で見たけど、他の怪獣は横からの絵しかないものもあって。最後は想像で描かざるをえなかったですね。

 でも、今思うとそれが良かった。後から(マンガに)描いた方たちは、テレビ放送を観た後だから、どうしても実写の「ぬいぐるみ」(着ぐるみ)に引きずられるんですね。ぬいぐるみから模写して描いてるから、人間が入ってシワシワになったぬいぐるみから抜け切れない。

 僕(の絵)は資料がなかったせいもあって、ぬいぐるみっぽい感じがしない。だから、怪獣やウルトラマンをリアルに描けたし、グッズにしたときもそれらしくなったんです。そこは資料がなくて良かったと思います。

手塚治虫文化賞・特別賞の受賞記念トークイベントでグワシポーズを披露(右から)矢部太郎さん、楳図かずおさん、黒田健朗記者=2023年、東京・築地の浜離宮朝日ホール 

少女が主人公、人間の醜い心理を描いた「おろち」

――上京当初は講談社で描いていた楳図先生ですが、やがて小学館に移り、今ではむしろ「小学館の作家」というイメージが強くなっています。

 小学館で最初に声をかけられたのは、創刊されたばかりだった「ビッグコミック」(1968年創刊)です。ええ、小西湧之助さん(第4代「少年サンデー」編集長)が編集長の。最初は『ほくろ』という短編を描いたんですよ。そしたら、すぐに「サンデー」の田中一喜さん(第9代編集長)から声をかけられた。講談社のときと同じパターンですね。

――1969年、「少年サンデー」の初連載作品となる『おろち』が始まります。不老不死の美少女「おろち」を狂言回しに、人間の醜さやいやらしさが描かれる一話完結型の作品でした。昨年(2008年)、実写映画化もされましたね。テーマもさることながら、当時の少年誌で主人公が少女というのは異色です。

 テーマはお任せで、特にどういうものを描いてほしいということはなかったと思います。それで少女を主人公にしたんですよ。理由は「少年誌で少女を主人公にした作品」は、まだ誰もやってなかったから。田中さんも特に反対はしませんでしたね。「いいですね、それ!」といった感じだったと思います。

 絵もかなりリアルなタッチにしました。もっとも、少年誌らしい絵柄を気にしたのは最初だけで、「ウルトラマン」の後半くらいからはリアルな絵になっています。初期の少年マンガというのは手塚(治虫)オンリーだったんですけど、その頃はもうそれに合わせる必要もなくなってきていましたからね。

 ストーリーは完全にお任せだったので、「人間の心の怖さ」をテーマにしました。(自作品の)流れとしては、最初は『へび女』みたいに「本能で怖い」もの。ヘビ、クモ、暗闇とかね、視覚的に怖いものを描いていたんです。それが少しずつ、「人間が怖い」という風に変化していったんですよね。つまり、人間の心、人間心理の怖さを描きたいと。特に『おろち』では、「女の醜い心理」をテーマにした話が多いです。

――編集部でしっかり企画を固め、それをマンガ家に描いてもらう編集部主導の「少年マガジン」に対して、「少年サンデー」は作家主義というか、マンガ家に自由に描かせるのが特徴だったようですね。それを“丸投げ”と称した「マガジン」OBもいましたが……。

「サンデー」は本当に自由に描かせてくれて、やりやすかったです。「マガジン」の場合は割とカッチリとテーマを決めて、「こういう話を描いてくれ」と言われるんですよ。「ウルトラマン」もそうだし、その後、『死者の行進』という兵隊マンガや時代劇も描いた。だけど、そういうのって面白くないんですよね。僕は“飛べる話”を描きたかったから。

体を壊すまで描き続けた30代

『おろち』を始めた頃は目白に住んでいたんですけど、小学館に行くときはよく歩いてました。だいたい、行きは電車に乗って、帰りは歩くことが多かったですね。腕時計は持たないから計ったことはないけど、1時間くらいかかったんじゃないですか。

 僕は自動車に乗れないんですよ。一部で言われるような閉所恐怖症ではなくて、車に酔う体質なんです。だから免許だって原付の免許しか持ってません。それから、歩きながらアイデアを考えていたんです。いや、時間はなかったですよ。「サンデー」で仕事を始めた頃は週刊3本、月刊3本で、2日に1本仕上げてましたので。

――当時は30代前半ですか。それにしても、ものすごい仕事量ですね。

 週刊誌は「ティーンルック」、主婦と生活社だったかな。それから『おろち』の「サンデー」と「少女フレンド」です。まだ月刊だった「ビッグコミック」もそのまま描き続けていました。僕が一番忙しかった時期。アシスタントが7人いて、フル回転してました。

 もともと、タバコは吸わないんですよ。お酒も今はグラス1杯たしなむ程度ですけど、当時は全然飲まなかった。ものすごく忙しくて、ちゃんと食事をする時間も取れなかったくらい。だから(何を食べても)鉛を飲むようなもので、ちっともおいしいと思えなかったです。

 徹夜だけはしなかったけど、毎日朝の4時まで仕事して、8時には起きて仕事を始める感じ。4時間くらいしか眠れなかった。本当に地獄の生活。そのうち、とうとう体を壊してしまいました。

週刊誌は「サンデー」1本に

「少年画報」に『猫目小僧』の「肉玉」の話を描いているときです。担当者に「明日の朝までに4色のカラーと2色のモノクロを入れてください」と言われて、明け方ようやく描き上げた。8時に起きたら、顔が黄色い。病院に行くと、「肝臓が悪くなってる」と言われました。黄疸が出ていたんですね。お酒は飲まなかったから、過労のせいでしょう。それで田舎(奈良県)に帰って1週間休んだんです。それでも不思議なことに、どこも落ちてないんですよね(笑)。田舎まで原稿を取りに来た編集者もいましたから。

 こんな生活を続けていたら死んでしまう、と。それで週刊誌は1本にしたんです。最初、週刊誌は「サンデー」、月刊誌は「ビッグコミック」だけにしようと思ったんです。これくらいならいけるかなと思って。ところが、すぐに「ビッグコミック」が隔週になってしまって(笑)。でも、とりあえず週刊誌は「サンデー」だけに絞ったんですよ。

 小学館は原稿料が良かったということも大きいです。「マガジン」は「サンデー」よりはずっと安かったですね。さっき言ったように、「サンデー」は細かいこと言わず、自由に描かせてくれたこともあります。

「マガジン」はお役所的で固い。編集者の服装もきちんとしていたように思いました。「サンデー」はもっとヤクザっぽい感じ。ちょっとだらけてるけど、遊び心はある。「マガジン」のように企画を持ってくるんじゃなくて、自由にやらせてくれました。

 色合いの違いもあって、例えば「マガジン」は時代ものが多くて、「サンデー」は未来ものが多い。本来、「恐怖」ということで言えば、「サンデー」よりも「マガジン」のほうが合ってると思うんですけどね。軽い感じの「サンデー」より土臭い「マガジン」のほうが、ホラーや『漂流教室』は向いていると思うんですよ。

印象に残っている編集者は白井勝也さん

――その「少年サンデー」で、特に印象に残っている担当編集者はいますか?

「サンデー」で最初に声をかけてくれたのは田中一喜さんですけど、担当についたのは後に専務になった白井勝也さんでした(2009年に副社長)。初代担当ですね。『おろち』から『アゲイン』、『漂流教室』まで、ずっと担当してもらいましたよ。

 白井さんは……“活発な方”、ということですよね。白井さんの話というのは、ちょっと言いにくいところもあるんですけど、編集者として優秀な方だったのは間違いありません。どんな所にも顔を出しますし、昼も夜も働いてる。メチャクチャ仕事熱心で。

 僕が肝臓を壊してからは、原稿を取りに来たとき、しじみ汁をよく作ってくれました。そういうところはすごいマメでね。取材旅行というのはないんですけど、気分を変えるために伊豆や箱根のホテルを取ってもらって執筆したこともあります。後から白井さんもやって来ました。それから、(『美味しんぼ』などのマンガ原作者の)雁屋哲さんがデビューする前、僕は関係ないんですけど、打合せについていったこともありました。

 絵を描いてる人を上手に盛り上げる才能のある方ですよね。でも、それがちょっと脇にずれると危ない所もあって……いや、やっぱり言わないほうがいいでしょう(笑)。

――1970年、『アゲイン』の連載が始まります。『おろち』の主人公は少女でしたが、『アゲイン』はおじいさん。それが不思議な薬を飲んで若返るというコメディーでした。シリアスで重い『おろち』とは、まったく肌合いが変わりましたね。

 以前、「なかよし」に『ロマンスの薬あげます!』とか『女の子あつまれ!』というギャグマンガを描いたことがあるんですよ。ギャグというか、ラブコメかな。だから『アゲイン』は、出しぬけは出しぬけなんだけど、僕としてはそれなりに自信があったんです。

 当時、「ギャグのサンデー」なのに「ギャグがなくなってしまった」と編集部があわてていると聞いたんですよ。それで白井さんに「僕がギャグを描きます」って。白井さんが編集会議で話すと「楳図さんは恐怖のほうがいいんじゃないか」と言われたそうなんですけど、「いや、大丈夫。自信ありますから」と押し切って。確かに本格的なギャグマンガは初めてだったけど、『ロマンスの薬あげます!』などの評判が良くて自信はあったから。

 それまでの赤塚(不二夫)さんなどのギャグは1話完結型だったでしょ。そうではなくて、「続いていくギャグ」を描こうと。ストーリーマンガ形式でギャグマンガを描こうと思ったんです。理由は『おろち』のときと一緒で、誰もやってなかったので。

 単に笑いを目指しただけじゃなくて、「老人問題」をテーマにしているんですよ。主人公の元太郎じいさんが若返ったとき、楽しければ楽しいほど、元に戻ったとき悲哀が出るだろうという計算なんです。だから若返ったときは思いっきり弾けて、笑いを多く、楽しく描いたんですね。

 僕の全体の流れでいくと、最初は「本能の恐怖」、次が「人間心理の恐怖」と来て、そこから少しずつ「社会性」が入っていくんです。『アゲイン』から『漂流教室』にかけて、登場人物が多くなっていく。『へび女』を描いた頃、「社会性がない」と言われたことがあったんですけど、要は人数が多くなれば自然に社会性も出てくるわけで。

――元太郎には「まこと」という孫がいますけど、これってもしかして……。

 そう、後の「まことちゃん」です。つまり、『アゲイン』は元太郎じいさんが主人公、『まことちゃん』は孫の「まこと」が主人公というだけで、同じ世界なんです。

 昔から幼稚園児を出したいと思っていて。幼稚園児そのものが好きなんじゃなくて、「幼稚園児が出てくる話」が好きなんです。大人から見れば当り前のことに、「なんで?」とこだわるでしょ。理解力が足りないから、つまらないことでも疑問に思って食い下がってくる。「なんで?」と言われることで、当り前の出来事でも面白く見えてくることがあって。 

楳図かずおさん=横関一浩撮影

荒廃した未来描いた「漂流教室」

――1972年、本格SF作品『漂流教室』が始まります。800人の児童ごと、小学校がタイムスリップ。誰も想像できなかった荒れ果てた未来世界で、子どもたちのサバイバルが描かれます。楳図先生の代表作のひとつであり、小学館漫画賞も受賞しました。1987年に実写映画化もされていますね。

 もともと子どもを描くのが好きなので、子どもばかりの話を描いてみたかった。「子どもだけの社会」を描いてみたかったんです。それで始めたのが『漂流教室』。アイデアの核はジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』ですね。

 子どもはある出来事に対して、本気で疑問を持ったり体当たりしたりできるでしょう。大人だと簡単に処理できてしまう。子どもは「できないんだけど、がんばる」のが魅力なんですよ。作品のテーマは「僕たちは未来にまかれた種だ」ということですよね。

『漂流教室』の場合、「ひどい環境の中でがんばる」話を描きたかったから、砂漠という状況になっているんです。「荒廃した未来」という状況に、いきなり放り込まれる。最初から、そういう始まり方にしたいと思っていました。

「それまでのSFにないこと」は意識しましたね。ひとつは、時間を隔てて母と子がやり取りできること。時間にかかわるSFは『雪の花』や『ガモラ』など、貸本時代に結構描いてはいるんですよ。

 それから、「未来が明るくない」という発想は当時(ほかに)なかったはずなんです。

――確かにそうですね。映画「ブレードランナー」なども80年代に入ってからでした。

 それまでのSFで、いつも「未来が明るい」のが疑問だったんですね。冷静に考えると、「未来が明るい」というのと「未来は破滅」というのは並行してるんですよね。「未来が明るい」のは文明が発達するからだと思うんですけど、文明というのは自然に逆らうものですから、文明が発達すれば破滅する確率も大きくなる。だから「未来が明るい」というのは一面的な考え方で、裏の部分を見ていないと思ったんです。

まことちゃんには眉がない

――続いて、1976年から『まことちゃん』が始まります。今までにない異色のギャグマンガとして一世を風靡。「グワシ」という手の形もはやりました。

『アゲイン』に出てきた「まことちゃん」にとても人気があったので、『アゲイン』が終わってから「まこと」を主人公にした読み切りを描くようになったんです。『漂流教室』の連載中も、ときどき発表してましたよ。それが好評だったので、『漂流教室』が終わってから連載になったんです。

――『漂流教室』のテーマは「僕たちは未来にまかれた種だ」ということでしたが、『まことちゃん』のテーマは何でしょうか?

 テーマ性はないんです。「子どもってどんなの?」ということかな。子どもをいろんな角度から描く。それがテーマといえばテーマですね。

 髪型は当時の礼宮(あやのみや)をモデルにしました。今でも秋篠宮を見ると、「まことちゃんが実在したら、もうこれくらいの年齢なんだなぁ」と思いますよ。当時の礼宮は目の上で髪が切りそろえられていた。眉が隠れている。そこがとても気に入って。後から考えると、マンガの絵で「眉が隠れている」ことには、すごく大きな意味がある。つまり、人格が形成しきれていないんです。

 眉を入れた顔を描くと、性格や人格が表れてきちゃう。八の字眉にすると、とぼけた感じとか。まことちゃんは、まだ人格がないから眉がない。隠れてるんじゃなくて、彼の場合は髪を上げても「眉がない」んです。人格がないから、何をしでかすかわからない。

――黒目がちの、まん丸い目も印象的でした。

 うん、顔はいつもビックリ顔。驚いてるように、目を大きく見開いている。子どもだから何を見ても驚く、というイメージですね。そういう顔に決めちゃうと、逆に状況もそうせざるをえない。「まことちゃんがビックリすることって何だろう」と考えるわけです。

『まことちゃん』の反響は大きかったですね。残念だったのは、映画にはなったけど、アニメにならなかったこと。当時、「サンデー」編集部が「キャラクターの権利がよそに行っちゃう」とか言って、テレビ化しないほうがいいと言われたんですね。今からでも、アニメにしてくれないかな(笑)。

 大ヒットしたことで一番の変化は、僕自身がマスコミに出るようになったこと。人前で歌もうたうようになりましたから。メディアに出るようになったことで、芸能界の人たちなどと接して世界が広がったことは良かったですね。

楳図かずおさん=横関一浩撮影

――今日はありがとうございました。最後に、楳図先生のトレードマークになっている「紅白のボーダーシャツ」についてもお聞きしておきたいんですが……。

 このシャツですか。高校を卒業してマンガ家になったときから着ています。高校時代は学生服だし、洋服には無頓着でした。

 ルーツは海賊なんです。小学生のとき読んでたマンガによく海賊が出てきたんですけど、僕はその海賊が好きだったんですね。海賊はみんな、シマシマのシャツ着てるんですよ。それに痩せてるから、横縞は少しでも太って見えていいかなと。「赤と白」はくっきりしていて一番目立つでしょ? 今は40~50着くらい持っています。あまり売ってないから貴重なんですよ。

 マンガ家になって50年以上経つけど、体形はちっとも変わりません。167センチ48キロのまま。ベルトを買うと、余計に穴を開けないといけません。徹夜しない、タバコ吸わない、車に酔うからよく歩く、毎日カンツォーネを歌う……。結果的に、体にいい生活をしていたのかもしれませんね。

(2009年4月13日、「まことちゃんハウス」にて取材)