
ISBN: 9784260057356
発売⽇: 2024/10/07
サイズ: 21×2cm/280p
「イルカと否定神学」 [著]斎藤環
フィンランドで発明されたオープンダイアローグ(OD)は、グループの対話を主とする新たな心理療法として、近年注目されている。日本では特に斎藤環が熱心に導入してきたが、彼の本来の思想的拠点は、難解をもって鳴るジャック・ラカンの精神分析にあった。では、ODの何が画期的で、ラカンの思想とはどんな「対話」が成り立つのか。その探究が本書のテーマである。
ODの核心には、対話の「条件なき受け入れ」がある。斎藤によれば、ODはケアの手法でありながら、治療や改善という目的をいったん捨てて、目の前の患者との対話に集中するように促す。不思議なことに、この無条件のプロセス重視の姿勢が、かえって精神病の治療には効果的らしい。逆に、治そうと力んで「なぜ」という因果思考を患者に向けると、対話は硬直し閉ざされてしまうのだ。まずはじっと傾聴すること、そして不確実性に耐え、治療者の操作や意図を排すること――この教えはシンプルであるがゆえに印象深い。
では、なぜ患者との対話が持続できるのか。それは言葉の特性と関わる。斎藤はラカンを参照し、言葉がその不完全さ(否定神学的作用)ゆえに、対話のプロセスを保全すると論じる。人間はお互いに理解を超えた「他者」でありつつ、穴のあいた言語システムを共有する「同胞」でもあるのだ。だから、相手が何を言うか予測できないのに対話できる。この種の「逆説」への気づきが、本書には満ちている。
対話はありふれていて、少しも神秘的ではないが、臨床の「場」ではときに驚くべき回復をもたらす。それは実際にはODに限らない。読者は、日々の対話という平凡な事実にこそ、多くの非凡な秘密があることに気づくだろう。本書は医学書の枠を超えて、小さな対話の偉大さを語った思想書である。それは「言葉ゆえに病み、言葉によって癒される」人間の探究でもある。
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さいとう・たまき 1961年生まれ。精神科医、筑波大名誉教授。著書に『改訂版 社会的ひきこもり』など。