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「ザッハー=マゾッホ集成」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ 「マゾ」の一語で語ることなかれ 朝日新聞書評から

評者: 椹木野衣 / 朝⽇新聞掲載:2024年11月30日
ザッハー=マゾッホ集成I: エロス 著者:ザッハー=マゾッホ 出版社:人文書院 ジャンル:外国文学研究

ISBN: 9784409130421
発売⽇: 2024/09/30
サイズ: 13.5×19.4cm/556p

ザッハー=マゾッホ集成II: フォークロア 著者:ザッハー=マゾッホ 出版社:人文書院 ジャンル:外国文学研究

ISBN: 9784409130438
発売⽇: 2024/09/30
サイズ: 13.5×19.4cm/512p

ザッハー=マゾッホ集成III: カルト 著者:ザッハー=マゾッホ 出版社:人文書院 ジャンル:外国文学研究

ISBN: 9784409130445
発売⽇: 2024/09/30
サイズ: 13.5×19.4cm/436p

「ザッハー=マゾッホ集成」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ [著]ザッハー・マゾッホ

 性的嗜好(しこう)の両極(加虐/被虐)として日本語でも定着している「サド(S)/マゾ(M)」。だが、由来となるマルキ・ド・サドやザッハー=マゾッホの小説を読んだことのある人がどれほどいるだろうか。かくいうわたしも、サドこそ澁澤龍彦の訳で親しみがあったものの、マゾッホとなるとロックバンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの佳曲「毛皮のヴィーナス」や、哲学者ジル・ドゥルーズによる読解から間接的に知るにとどまっていた。本集成はマゾッホをめぐるこうした読書環境を一新する画期的、かつ歴史的な出版だ。毛色の異なる大部の3巻を一斉発売したのも快挙だ。
 実際に読んでどうだったか。衝撃にヴェルヴェッツもドゥルーズも吹き飛んでしまった。私たちはマゾッホの「文学」についてなにも知らなかったのだ。その点でマゾッホの代名詞とも言える第1巻「エロス」はもちろん、第2巻「フォークロア」、第3巻「カルト」の意義は大きい。マゾッホが自認した「マゾヒズム」は、とうてい「マゾ」の一語に集約できる代物ではなかった。
 まず出自の問題がある。マゾッホの作品は故郷ガリツィアの歴史や風土に多くを負うが、ガリツィアと聞いて地理が浮かぶ人は少なかろう。現在のポーランド南部からウクライナ南部に及ぶ一帯で、マゾッホが生まれたのは中心都市リビウ(ウクライナ語名)。だが、この街はかつてルヴフ(ポーランド語名)リヴォフ(ロシア語名)レンベルク(ドイツ語名)と呼ばれた。マゾッホの文学が素朴な被虐に収まるはずがない。
 加えて民族。本書によると、ガリツィアではポーランド人、ロシア人、小ロシア人、ルーマニア人、ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人、イタリア人、ハンガリー人、ジプシー、トルコ人、宗教ではギリシア的カトリック教徒、ローマ的カトリック教徒、アルメニア・キリスト教徒、ギリシア正教徒、リポヴァン教徒、ドゥホボール教徒、ユダヤ教徒、カライ派、ハシド派、ルター派、カルヴァン派、メンノー派、イスラム教徒らが古くからともに暮らしてきた。
 たとえオーストリア系のドイツ語で書かれていたとしても、マゾッホの文学は挙げるだけで紙面を埋めかねない多数の言語、民族、宗教による無際限な混淆(こんこう)と圧縮の産物であった。こうして「マゾヒズム」は地球上のどこにも属さず、いかなる権力にも毒されないヴィジョンへと結実する。「マゾ」とは、そのような歴史の潜在的な力動に冠された暫定の名にすぎなかった。
    ◇
Leopold Ritter von Sacher-Masoch(1836~95) 作家。小説に出てくる被虐的な快感をもとに、精神科医エビングが「マゾヒズム」という言葉を著書で使った。