ISBN: 9784104077045
発売⽇: 2024/09/26
サイズ: 19.1×2cm/344p
ISBN: 9784104077052
発売⽇: 2024/09/26
サイズ: 19.1×2cm/344p
「大使とその妻」(上・下) [著]水村美苗
軽井沢の空気は自由にする。軽井沢でも人気(ひとけ)の少ない静寂の地、追分。ここを舞台に『大使とその妻』という素っ気ないタイトルの小説は始まる。だからといって、常に読者をダイナミックな世界に招き入れ、楽しませてきた著者のことだ。思い通り最後のページまで繰れば、このタイトルしかないと納得する。
無論、ツルヤ、松葉タクシー、浅野屋など軽井沢ならではのお店やタクシーの名前が頻繁に出てきて、軽井沢の土地柄がはっきりしてくる。そのリアリティーの強さと、さらに対照的な登場人物の個性が明快な故のリアリティーの深さ。そもそも語り部が日本人でなく、アメリカ人同性愛者のケヴィン。軽井沢でのケヴィンと貴子たちの隣同士の住民としての神秘的な出会い、続いてケヴィンの半生が語られる。やがて戦前から戦後にかけての貴子一家の話となり、そこに京都、ブラジルなどの居住空間の広がりが展開される。実は貴子は精神を病んでいると分かる。
著者の舞台に登場する女性は概して芯が強く、自己主張がはっきりしている。これに対して男性は往々にしてよく気がつきやさしい。人々の対話の中から日本の伝統文化(能楽などの伝統芸能)が浮かび上がる。それらはプルーストをもじった「失われた日本を求めて」への思いであると同時に、瑠璃子や貴子という日本人のブラジル生活に現れる、一種のコスモポリタニズムに他ならなかった。
そして人と場所についての著者独自の詳細な描写の中に、今の日本の姿が次第に見え始める。それは、戦後の一番華やかな時代を過ぎ、少しずつきしみ始めた日本の有り様である。京都もそして軽井沢も「失われた日本」を求められる地ではなくなってきている。日本を一度は外から眺めた者にとっては、永住の地でさえなくなる。しかも小説はクライマックスに来て、コロナの流行による日本や世界の変容していく様をくっきりと描き出す。果たして貴子は「かぐや姫」の運命をたどるのや否や。
再び、軽井沢の空気は自由にする。日本文化の再生と復活は、どうしたら可能なのか。著者は、ケヴィンと貴子を通してそれを問うことから「失われた日本をたどる」作業が始まることを示唆している。今の日本を日本人だけで解き明かそうとするのではなく、より広い世界史的視野から掘り起こすことこそが、日本の過去と現在を未来に投影しうる成果となろう。でもそれは、絶望的なまでに難しい課題に他ならないのだが。そこで著者の次作をやはり期待したい。
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みずむら・みなえ 作家。米イエール大仏文科卒、同大学院修了。米国の大学で日本近代文学を教える。『本格小説』で読売文学賞。『日本語が亡(ほろ)びるとき』で小林秀雄賞。『母の遺産 新聞小説』で大佛次郎賞。