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ひらがなとカタカナ 文字の感触、響きの実在感 古川日出男〈朝日新聞文芸時評24年12月〉

 数年前に自分は中国人作家の閻連科(えんれんか)さんと東京で食事をしたことがあった。彼には『愉楽』という長篇(ちょうへん)小説があってこれは強烈無比な破壊力を具(そな)える。壊しながら世界を創造する、そういう類いだ。その閻さんに「日本には簡体字ではないにせよ漢字が溢(あふ)れている。旅行していてどの程度の(街中の)メッセージが理解できるのか?」と尋ねると「八割はわかる」と回答された。驚いた。だが実験してみたい。この時評の冒頭の一文から漢字以外を省いてみる。「数年前自分中国人作家閻連科東京食事」。たしかに意味が通じる。だとしたら、ひらがなとカタカナは日本語において何をやっているのか?

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 それを問うにも相応(ふさわ)しい小説が滝口悠生「歯ごたえと喉(のど)ごし」(「新潮」一月号)だった。六十八歳の主人公の女性が、弟を訪ねて娘やら孫やらすでに義理の息子ではない娘の元夫やらと台湾へ旅行する。すると弟は「零零烏龍」という店を経営していて、これはりんりんうーろんと発音されて、うどん屋である。この音の響きには触感があり、同時に(飲食店ゆえの)食感もある。そして姉である主人公から見て、弟の生き方やその他の家族全員に“違和感”という名の食感があって、これがうどんを通して甦(よみがえ)るのに等しいのだが、併せて日本統治時代の台湾の五十年、という背景の感触(これも食感だ)が重ねられて、結局はオノマトペこそが彼女を救っている。りんりんうーろんという響きがだ。それは作品内の表記ではひらがなであるし、質感的にはカタカナでもある。

 心理学で「ブーバ/キキ効果」と呼ばれるものは、丸みのある図形と角張った図形の二種類を示して「どちらがブーバでどちらがキキと思うか?」と問うと、大概は後者の図形をキキに選んでしまうという内容で、そこにはオノマトペとの関連もあるとも指摘されている。母語が何であるかは無関係に、人はある図形にブーバを見て、ある図形にはキキを発見するのだ。詩人の岡本啓は『ノックがあった』(河出書房新社)に収録の一篇で、ミャンマーの騒乱に触れながら「ブーバ キキ」と呪文的に口にする。そして「ちいさな走り書きだけど/ひびきのきれはしへ/こころぼそさを記しておく」とも続けて、その誠実さは姿勢からして詩だ。この著者はこの地球上の全部のノックに応答しようとしている。

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 坂崎かおるの短篇集『箱庭クロニクル』(講談社)には、日本語だと二種類の読みが現れるが実際の発音は異なる漢字三文字の名を持った中国人タイプライター教師が登場する「ベルを鳴らして」が収められていて、まさに世界を「鍵盤上の文字群によって読み解かれる宇宙」と設定している。そこから生じるミステリーが感動的だが、ひらがなカタカナの排された中国語タイプライターによって「たった一文字」で反転する世界像、との洞察に凄(すご)みがある。

 世界像という視点からさらりと現代の神話を編みあげたのがクレア・キーガン『ほんのささやかなこと』(鴻巣友季子訳、早川書房)で、クリスマスを目前にした一九八五年のアイルランドが舞台だが、実父のいない主人公がいつしか養父しか持たないイエス・キリストに重ねられる。人間イエスは、母親が「処女懐胎した」と信じられるがゆえに、家庭内に父親がいてもそれが“養父”とされているのだ。実父を知らなかった男が、産んだ子をキリスト教会運営の施設に奪われてしまった若い娘(悲惨な十代)に遭遇するとどうなるか? そこに「養父たらんとする意思が生まれる」というのが神話の見取り図で、ここでは作品内に現れることのない赤ん坊こそが現代のキリスト――幼子イエス――なのだ。

 この『ほんのささやかなこと』は母子家庭を神話の源泉とした。同じことを日本で、つまり日本語によって編まれる世界で試みると何が産まれるかの一つの回答が上村亮平「熾火(おきび)」(「すばる」一月号)だと言える。そこで描かれているのは日本のどこかの地方というよりも、湖を有して冬には雪が降り積もって犬たちが橇(そり)をひいている「日本語が話されている不定の土地」だと感じる。なぜならばこの著者の構築する世界にはひらがなの感触やカタカナの質感が溢れていて、だから火と話のできる母が実在感を具え、その母が火の向こう側に見ている何者かも実在感を有し出し、それが自分の父親であるのだと養父すらも持たない語り手の私が洞察する。湖のその水と炎との交叉(こうさ)にも始原の物語力を感じた。=朝日新聞2024年12月26日掲載