仕事ってなんだろう。たとえば、自分がやったわけではないミスで人に謝る。特にそうは思っていない言葉を語る。本当は泣きたいのに笑う。そして、実際の思いは、自分の奥深くに隠れていってしまう。それでもまだ、本当の自分の存在が実感できるうちはいい。やがて必要に応じて仮面をつけ続けているうちに、自分の感覚がわからなくなる。あれ、泣くってどんな感じだっけ。でももう、内側をいくら探しても、本当の自分は見当たらない。
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高瀬隼子「虫のいどころ」(「すばる」十月号)の主人公である植野は、自分と同じ新入社員の佐伯穂希が気になって仕方がない。人間関係を円滑にするために、常に自分は笑顔を浮かべてきたのに、佐伯は職場で笑顔を見せない。だが意外なことに、ただそういう人として周囲に受け入れられている。それなら今までの自分の努力は何だったのか。
状況が一変するのは、YouTubeで佐伯が動画をアップしていることを、偶然、植野が知ってからだ。主に昆虫の飼育についての動画で、佐伯が淡々と語り、それに大量の好意的なコメントが続いている。そしてなんと、あの佐伯が笑っているのだ。毎日居酒屋で一人、食事をしながら動画を見ていた植野は、やがて佐伯の笑顔に飢えるようになる。彼女が顔出しでやっている配信に「笑って」と書き込み、二百円の投げ銭までする。
部長の定年退職のお祝いの会で、若い女性だからと花を渡す係にされ、彼に肩を抱かれた植野は、強烈な不快感を覚える。それでも何も言えない。そんな彼女に手を差し伸べたのは佐伯だった。本当は嫌だった、と代わりに言ってあげようか、と提案する佐伯に、それより「ちょっと、笑ってみてくれない?」と植野は促す。そして、なんだかとても楽しくなって、二人で爆笑するのだ。
業務だけでなく感情まで要求される労働は人を深く蝕(むしば)む。その目に見えない苦しみを分かち合える関係がなければ、我々は生きられない。
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ペク・スリン『まぶしい便り』(カン・バンファ訳、書肆侃侃房)で語られるのは、かつて韓国からドイツに派遣された看護師たちの青春である。姉をガス爆発で亡くした十二歳のヘミは、母親と妹の三人でドイツに渡る。大学院で神学を学んでみたい、というのが母親の希望だった。そこで彼女たちは、韓国からやってきた看護師たちのコミュニティに助けられる。だからこそ、その中の一人であるソンジャおばさんが脳腫瘍(しゅよう)で余命いくばくもないと知ると、おばさんの初恋の人を友達同士で探そう、と決意する。
盗み見たおばさんの日記には、KHというイニシャルだけが記されていた。もちろん子どもである彼らが手掛かりを見つけることはできない。だが成長してジャーナリストになったヘミは「書きたくもない」文章を書き続けることに耐え切れず退職したあと、以前の調査を再開する。ようやく発見したKHにはある秘密があった。当時の韓国社会では受け入れられなかった二人の関係も、ドイツでならどうにかなるのではないか。そしてソンジャおばさんは、看護師として一足先にドイツに渡る。しかし必死に働いていた彼女の元に届いたのは、KHが結婚したという知らせだった。
ニンニク臭いと言われて差別されながら、歯を食いしばって異国で何十年も働き続けた彼女たちだが、その歴史が語られることはあまりない。それでも、彼女たちの内側には強い思いがあって、本書の言葉はそれを、確実に掬(すく)い上げている。
第二次世界大戦中に捕虜となり、日本の大浜俘虜(ふりょ)収容所で奴隷労働を強いられていた父親について、リチャード・フラナガンは『第七問』(渡辺佐智江訳、白水社)で語る。炭鉱の地下トンネルで長時間、休日もなく働かされていた捕虜たちは、監視員から過酷な暴力を振るわれていた。命を落とす者もいたが、オーストラリア人の彼らは、階級に関係なく、助け合いながら生き続けた。
「独りきりでは行き詰まるが、協力すれば生き延びられる」。そうした知恵を、彼らは祖先である囚人たちから受け継いだのか。それともアボリジナルの人々から学んだのか。実は、フラナガンの父親はその両方の血を引いていた。肌の色ゆえに差別されて育ちながらも「思いやりがなければわれわれにはなんの価値もない」という信念を持ち続けた彼の、控えめな勁(つよ)さは魅力的だ。=朝日新聞2025年9月26日掲載