1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. 親と子、赤いつながり とぐろ巻く暴力、回帰する声 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評25年10月〉

親と子、赤いつながり とぐろ巻く暴力、回帰する声 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評25年10月〉

絵・大村雪乃

 子どもは生まれてくる家庭を選べない。酒を飲んで帰ってきた父親が家族に罵声を浴びせる。やがて夫婦喧嘩(げんか)となり、父親が家族に暴力を振るう。それでも幼い子どもたちはどうにもできない。だから心を凍りつかせ、無表情になって、ひたすら今の時間が通り過ぎるのを待つ。やがて大人になり、親子の体力差もなくなってくれば、そうした恐怖の場面も減るだろう。けれども、小さいころに体に染み込んだ暴力的な言葉は、容易には消えていかない。

    ◇

 市川沙央「オフィーリア23号」(『女の子の背骨』所収、文芸春秋)の主人公である那緒の人生の中心には、常に暴力がある。病院長である父親は毎日のように、二十歳近くも年下の元看護師である母親に暴行を加える。幸い、兄の知史と那緒は直接的な暴力の対象にはならないものの、しつけの名のもとに暴言を浴びせられる。だから那緒はこう思う。「殴ったりつねったり蹴ったり暴言を吐いたりしない父親! いるのか、そんなの。」

 医者になれ、という父親からの圧力を兄に押し付けた那緒が、大学で文学研究の道に進んだのも、父親の暴言に対抗できる言葉を探してのことだろう。ただし彼女はすんなりと、父親の言葉を批判する方向にはいかない。代わりに、性差別的な思考を密度の高い言葉で紡いだ著書『性と性格』を残し、二十三歳でピストル自殺したウィーンの哲学者、ヴァイニンガーを卒論のテーマとする。彼と一体化することで、父親を凌(しの)ぐ差別主義者となること。それは間違った解決法にも見える。

 さらに那緒は、恋人の和人とともに三島由紀夫の『憂国』を実写化すべく、熱海の福利厚生施設で、着物姿で彼に抱かれる。そして、かつて人々が踏んだであろう畳に顔を押し付けられ、「痛み以上のもの」を感じる。そうしながら彼女の中で、感情の圧力が高まっていく。それはやがて、父親に対する「夕飯のおかずに箸休めが足りない程度のことで妻を殴る蹴るしていたおまえのほうがよほど感情的なヒステリー野郎だろうが、クソが。しねよ。」といった言葉に結晶化するだろう。

 暴力は家庭の中にあるだけではない。歴史を紐解(ひもと)けば、日本社会そのものが暴力に満ちている。確かに現在、表面的にはそうしたあからさまな暴力は姿を消しているようにも見える。だが、ほんの薄皮一枚向こうには、それがいまだとぐろを巻いているのだ。市川の言葉は、そのことを鋭く暴いている。

    ◇

 新潮新人賞受賞作の内田ミチル「赤いベスト」(「新潮」11月号)で何度も回帰するのは、十年前に失踪した母親だ。ちょっと歩いてくると言ったあと、ボケ始めていた母親は赤いベストを着たまま姿を消してしまう。けれども、娘である跡野さんは、そのことに内心ホッとしている。男尊女卑的な考えから弟にばかり甘く、姉である自分を可愛くない、と罵(ののし)るだけの母親に、跡野さんは子どものころから反発心を抱いてきた。

 だが、もはや亡くなっているだろうにもかかわらず、母親は跡野さんを解放してはくれない。近所の大田さんの夫が倒れた日に見えた幻覚をきっかけに、赤いベストを着た女が町中を徘徊(はいかい)しているという噂(うわさ)が出回る。しかも、目撃者も次々と現れるのだ。どうにかしなければならない。

 怯(おび)える大田さんの家に泊まり込んだ跡野さんは夜、玄関から入り込んでくる謎の気配を一喝する。「こらっ!」「二度と来るなっ!」。そして、急死した弟の家のタンスにしまってあった母親の赤いベストを身につけて町を歩き回る。なんだ、跡野さんのいたずらだったのか。もちろんそうではない。だが一度、母親になってみることで、跡野さんは初めて正面から母親と向かい合えたのではないか。

 イ・ユリの短篇(たんぺん)「赤い実」(『ブロッコリーパンチ』所収、山口さやか訳、リトルモア)に登場する父親は、すでに亡くなって灰になっている。だがそれでも父親は黙っていない。遺言どおり娘が骨箱に土を入れ、木を植えたところ、父親の魂が木に宿って会話できるようになったのだ。「父は木になっても、窓を開けろ、コーラを買ってこいってうるさい」。そして、台車に乗せて散歩に連れて行った公園で、父は同じく鉢植えの木となった女性と出会い、恋に落ちる。SF仕立てのキュートな作品だが、その裏には、親との適切な関係を探る気持ちがある。=朝日新聞2025年10月31日掲載