去年のことだ。いつ会ってもきびきびと明るい知人が、並んでメイク直しをしている時に呟(つぶや)いた。「なんかいつも明日のことをしている気がする。家事とか仕事とか、明日ちょっとでも楽になるように準備をするんだけど、明日になると明後日のことをしてるんだよね。いつになっても今日を満喫できない」。
確かに、と思った。私はそこまで効率を考えて暮らせてはいないが、洗剤や調味料のストックを買い足したり、明日の朝ごはんの味噌(みそ)汁のために昆布を水に浸したりはする。あんがい今日だけに集中する日は少ないかもしれない。「まあ、それが生活だし」と毒にも薬にもならない相槌(あいづち)をうった気がする。
年末、正月の準備をしている時にそのことを思いだした。普段はしないところまで掃除をし、お節や雑煮の材料で冷蔵庫を一杯にし、年賀状の束を投函(とうかん)する。すべては正月のために。特に元日から三日までの三が日は掃除をしてはいけない、刃物や火を使ってはいけない、など歳神さまを迎えるにあたっての禁止事項があるという。つまりは家事などせずゆっくり過ごせということなのだろう。これは、明日のことを考えず今日だけを生きるチャンスではないか。帰省の予定がなかったこともあり、例年以上にきっちりと正月の準備にいそしんだ。家も鍋も磨きあげ、酒も食料も蓄え、猫も人間も身綺麗(みぎれい)にし、姪(めい)にお年玉を送り、仕事道具を見えないように片付けて、大晦日(おおみそか)を迎えた。年越し蕎麦(そば)の代わりに鍋焼きうどんを食べ、お酒を飲み、さあ明日から三日間はなにもしないぞ、と意気込んで眠りについた。
準備の甲斐(かい)があり、理想的な三が日を過ごすことができた。好きな時間に起き、好きな時間に食べ、買いものに行くこともなく、仕事のことも考えず、ひたすら好きなことをした。しかし、日常に戻るのが恐ろしくつらかった。のんびりしすぎて言語化も遅くなり、仕事に支障をきたしている。自分はほどほどに先を考えて生きるほうがいい気がする。=朝日新聞2024年1月15日掲載