1. HOME
  2. コラム
  3. 鴻巣友季子の文学潮流
  4. 鴻巣友季子の文学潮流(第22回) 文学的仕掛けに満ちた芥川賞「ゲーテはすべてを言った」を掘り下げる

鴻巣友季子の文学潮流(第22回) 文学的仕掛けに満ちた芥川賞「ゲーテはすべてを言った」を掘り下げる

©GettyImages

 今回の芥川賞は、安堂ホセ「DTOPIA」(文藝初出、河出書房新社)と、鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(小説トリッパー初出、朝日新聞出版)に決まった。

 鈴木結生は大学院修士課程在学中の23歳。本人に聞いたところ、牧師の子どもとして教会で育ち、いちばんの愛読書は聖書だったとのこと。「人にはどれほどの本がいるか」で第10回林芙美子文学賞の佳作に選ばれ、第2作目の「ゲーテはすべてを言った」で芥川賞初ノミネート、それが受賞につながった。

 芥川賞の島田雅彦選考委員によれば、選考会において鈴木の作は一度目の投票でトップとなり、二度目の投票で安藤ホセとの同時受賞が決まったとのこと。抜きんでた評価だったのだろう。

 それにしても、近年の林芙美子文学賞(北九州市主催)の勢いに目をみはっている。前回の芥川賞を受賞した朝比奈秋も「塩の道」で同賞の大賞に輝いてデビューしたし、「無敵の犬の夜」で芥川賞候補となった小泉綾子は佳作、また、創元SF短編賞でデビューした高山羽根子も「太陽の側の島」で林芙美子賞の大賞に選ばれ、その後、芥川賞を受賞している。これからも注目したい賞だ。

英米ではジャンルとして定着したアカデミックロマンス

 『ゲーテはすべてを言った』は、アカデミックロマンスというのか、キャンパスノベルというのか、英米では一つのジャンルになっているぐらいだが、日本文学ではそんなに書かれないタイプの作かもしれない。主人公は日本でゲーテの一人者となった63歳のドイツ文学教授であり、語り手は彼の「娘婿」にあたる小説家。ほかにこの教授の娘と妻、恩師、後輩研究者などが出てくる。

 とはいえ、イギリスでアカデミックロマンスの元祖的なキングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』とか、この元旦に他界したデイヴィッド・ロッジの『小さな世界』(白水社)とか、日本で言ったら筒井康隆の『文学部唯野教授』(岩波現代文庫)や、奥泉光の「桑潟幸一准教授」シリーズ(文春文庫)のような、大学内でのせせこましいいざこざや足の引っ張り合いを書く風刺コメディというわけではない。

 かといって、フィリップ・ロスの『欲望学教授』(集英社)や、J・M・クッツェーの『恥辱』(ハヤカワepi文庫)のような、男性教授が性欲のおもむくままに女子学生を……といった話でも全然ない。あるいは、ドロシー・L・セイヤーズ、ドナ・タート、レベッカ・マカーイのある種の作品のような、学内で殺人や犯罪が起きるミステリーでもない。

 ない、ない、ない、ばかり言っているが、そんなある意味なにも事件の起きないこの小説が抜群におもしろいのだ!

実在の作家や書物と虚構が絶妙に混在

 言ってみれば、ウンベルト・エーコ、イタロ・カルヴィーノ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスらを想起させる文学的仕掛けが満載だが、読み心地は重たくない。この軽やかさは登場人物たちの造形からも来ているのだろう。みんな、どこかとぼけていて愛嬌があるのだ。

 語り手がこの小説執筆のいきさつを語る端書き(ここからして曲者)が冒頭にあるが、物語本編はドイツ文学者の博把統一(ひろば・とういち)が夫婦の銀婚式記念日に、文学科生である娘の徳歌(のりか)にイタリア料理店に連れられていくところから始まる。

 ここで統一はある名言と出会うことになる。ちなみに登場人物の名前はみんなかなり独特で、「ひろばとういち」という音は、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一を思わせないでもない。

 さて、3人が食後に飲んだ紅茶のティーバッグのタグには、それぞれ哲人や作家の名言が書かれていた。徳歌にはジョン・ミルトン、妻義子(あきこ)にはプラトンの名言。ここで、義子は「ミルトンにもプラトンにも最先の前妻のポタージュに浮かんでいたクルトンほどに何の思い入れも持たない」などのダジャレが入るのもご愛敬。そして統一のタグには――運命というべきか――ゲーテの名言が書かれていた! このように英訳されて。
 Love does not confuse everything, but mixes.

 ゲーテの大家である統一をしてもこの言葉には覚えがない。とはいえ、この文言は統一の若かりし頃の初著書でありその名を世に知らしめた『ゲーテの夢――ジャムか? サラダか?』(百学館、一九九九年初版)のキーアイデアと絶妙に重なるところがあり、彼はこの一文を「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」と和訳する。

 著書のタイトルからしてニューアカの残り香というか、いかにも当時ありそうなノリである。まあ、翻訳という仕掛けが二重にからんできているこの時点で、カルヴィーノ的な、ボルヘス的な、あるいはナボコフ的な香りも漂ってくるのだが、実在の作家や書物と虚構のそれが絶妙に混在する点では、ローラン・ビネの『言語の七番目の機能』(東京創元社)などをお好みの向きにもうけるかもしれない。

 世界の統一性と多様性をめぐる『ゲーテの夢』は、以下のようなゲーテの二つの警句が重要なキーワードとして登場するという。

 「世界は粥やジャムでできているのではない。固い食物を噛まねばならない」(「格言風に」より)
 「世界はいわばアンチョビ・サラダ。何もかも一緒くたに平らげねばならない」(「比喩的およびエピグラム風に」より)

 だんだん人を食った感じになってきて楽しい。ゲーテは確かに「世界は粥やジャムからできてはいない」「固い食物も咬まねばならぬ」とは言ったようだ。しかしアンチョビ・サラダのほうはよくわからない。ドイツで生鮮野菜のサラダ文化が発達するのは19世紀後半以降(ゲーテは1832年没)だという説もあるが、そんなことは、まあいい。

 統一は世界の複雑性を二通りに分けて解説するのに、ジャム的(すべてが一緒くたに融けあった状態)、サラダ的(事物が個別の事象性を保ったまま一つの有機体をなしている状態)という造語を使った。これがうけて、サントリー学芸賞なども獲得し、ゲーテの『ファウスト』の翻訳ではバベル翻訳大賞を受賞、一時は「サラダおじさん」と世に呼ばれるようになった統一である。鈴木がまだ生まれていない頃の文学・学術界のありようをリアルにつかんでいて感心する。

 ここに、統一の後輩研究者の然紀典(しかり・のりふみ)(ゲーテの著書『親和力』をもじった『神話力』という著書が代表作)や、然のゼミ生で統一も指導している紙屋綴喜(かみや・つづき)(オカルティズム全般に関心がある)や、統一の恩師にして岳父の芸亭學(うんてい・まなぶ)(げーてがくとも読める、芸亭は奈良時代末期に建てられた日本初の公共図書館のこと)といった、一癖も二癖もありそうな面々が関係してくる。

一見オーソドックスな端書きが奏功

 こうして統一は名言の出典を探す冒険に乗りだしていく。とはいえ、上述のように本作においては、あらゆる言葉や引用が胡乱(うろん)なのである。なにが出典なのか、真の典拠はあるのか、本当に書かれたものなのか、本当に翻訳されたものなのか、等々。

 そもそも本作の「ゲーテはすべてを言った」というタイトルは、ドイツ人はなにかと言うと「ゲーテいわく……」と始めて、あらゆる言葉をこの文豪からの引用にしてしまう、というところから来ているのだ。

 然は名言のタイプを「要約型・伝承型・仮託型」に分けて解説し、多くは元々の言葉からは大きく変更された形で引用されてるのだと言う。原文を自分なりにまとめてしまうもの、言い伝えられているうちに変形するもの、なにかのメッセージの運び手となるもの。

 『ゲーテはすべてを言った』は真贋とオーサーシップとオリジナリティをめぐる刺戟的でキュートな知の冒険譚と言えるだろう。その冒険は私たちの生を形作る言葉の根源へと降りていく。「ゲーテはすべてを言った」とは、ボルヘス的に言えば、「すべての本はすでに書かれている」ということと通じあうかもしれない。

 本作が多分にブッキッシュな点は、作者自身が愛してやまないという大江健三郎譲りなのかもしれない。大江が引用について話したことを、ここで引用しておこう(この引用は本物です!)。

「引用の問題はいままでの小説――少なくとも『懐かしい年への手紙』以降の自分の小説――の課題として、私の小説作法の最大のものでした。まず引用する文章と地の文との間になめらかさも大事ですが、なによりズレがなきゃいけない。そのズレを保ちつつ、その上で精妙なつながり方をさせていく」(『大江健三郎 作家自身を語る』、新潮文庫)

 書かれたものと読まれたものの間にあるユレ、ブレ、ズレ。物語やフィクションなるものを何千年と持続させ繫栄させてきたものは、そうした人間ならではの有機的な思考にほかならないだろう。

 また本作は19世紀あたりのイギリス小説を思わせる、一見オーソドックスな端書きの存在も功を奏している。書くということは過去時制で書いても現在時制で書いても、「遡る」行為なのだ。ある意味、人間に未来を書くことはできない。未来のモードで書くことはできても。

 鈴木は端書きを使って語り手という存在の「釈明」を行うことで、書くという行為の本質である時間的遡及性をうまく扱い、語り手のもつ現在性を極力消しながら、過去時制で語られる物語を「いま」のものとして鮮やかに描きだした。今後の活躍に期待したい。