鬱の語り方 社会を問い直す「第一の問題」 杉田俊介

サカナクションの山口一郎が鬱病を公表し、自らの病気に寄り添って音楽を続けていると知った。躁鬱(そううつ)病(双極症)のこっちのけんとが、人気絶頂の中でも適度に休む勇気を見せてくれて、感銘を受けた。社会の見え方が徐々に変わっていった。この病気とは悪友のように今後の人生でずっと付き合っていくのだ、と思った。
進化医学を専門とするランドルフ・M・ネシーは「抑うつリアリズム」を紹介している(『なぜ心はこんなに脆〈もろ〉いのか 不安や抑うつの進化心理学』加藤智子訳、草思社・3300円)。楽観的な人は、鬱病などの健康リスクを回避できるが、他方では、望みのない無駄な努力を続ける、という誤謬(ごびゅう)にも陥りかねない。これに対し、悲観的で鬱気質の人々には、根拠のない幻想を退け、他の選択肢を客観的に検討するという「リアリズム」があると言う。
鬱病当事者で自死した批評家マーク・フィッシャーは、『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版・2200円)で、現代人が鬱病に陥りやすいことを資本主義の問題から論じる。資本主義こそが唯一の存続可能な政治経済であり、それ以外の可能性を想像すらできない、という精神状態が「資本主義リアリズム」である。社会は変わらない、希望はない、という「鬱病患者のデフレ的視線」を人々は内面化してしまっている。
フィッシャーによれば、現代においては、鬱病や依存症などのメンタルヘルスの問題が「第一の問題」である。それらの病や障害は、現代社会が若者や労働者に強いる葛藤や矛盾を何よりも象徴する。「もし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのであれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう」
フィッシャーは『わが人生の幽霊たち』(五井健太郎訳、Pヴァイン・3190円)では、現代音楽や映画を論じながら、時代のメランコリーやノスタルジーをあえて引き受け、過去の歴史や文化の中にありえた別の可能性や、生まれ損ねた潜在性を探し求める。資本主義リアリズムとは別の、鬱病的リアリズムの可能性があるのだろう。
躁鬱病当事者の作家、坂口恭平は、躁鬱病の本や医師の助言は「窮屈だな」と感じた、と書く(『躁鬱大学 気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません』新潮文庫・693円)。それらは、この病は基本的に完治しない、服薬は生涯続く、その人なりのほどほどの生き方をするしかない、という「消極的な姿勢」ばかりだった。しかし、躁鬱の当事者が目標のハードルを上げて自縄自縛に陥りがちなのは、「もう人生は終わったと絶望しているのにもかかわらず、何かを執拗(しつよう)に諦めていない」からではないか、と坂口は言う(『苦しい時は電話して』講談社現代新書・880円)。
人々が鬱病になったり燃え尽きたりしがちなこの社会の根本を問い直すとは、どういうことか。過度な成果や能力を強迫的に要求されるこの社会は何なのか。そして厄介な隣人としての鬱病と共にある私たちが幸福に自由に生きられる社会とはどんなものなのか。根本から考えていきたい。=朝日新聞2025年3月29日掲載