科学的に考える 情報の信頼性を判断するために 植原亮
かつて夢多き未来として語られた高度情報化社会は、実際に到来してみると、さまざまなリスクと隣り合わせの環境であることが明らかになった。すでに言い尽くされた感はあるが、私たちは毎日、政治・経済、医療や健康などに関する膨大な情報にさらされており、その中にはフェイクニュースをはじめ、陰謀論、疑似科学・科学否定論、歴史修正主義といった、疑わしい情報や有害な情報が含まれているのである。
そうした環境で求められるのが、質の高い情報と怪しげな情報との違いを見きわめる力にほかならない。ポイントの一つは、科学の考え方を知ることだ。科学はできるだけ信頼のおける方法で質の高い情報を生み出そうとする活動なので、それと対照的な疑わしい情報を見分ける手立ても提供してくれる。とりわけ、科学を装いながら科学ではない疑似科学については、科学哲学が長らく考察を重ねてきた。その基本を学ぶのにうってつけのテキストが、2003年の刊行以来版を重ねている伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会・3080円)である。
この本は、聖書の物語に寄り添う創造科学や超能力を研究する超心理学などを俎上(そじょう)に載せて、科学ではどんな推論が用いられるのか、科学の発展をどう捉えるかといった、科学哲学上の定番の話題をわかりやすく解説してくれる。とくに、程度の違いを捉えるための確率・統計的な思考の大切さを強調したうえで、科学と疑似科学の境目もまた程度の問題として位置づける本書後半の主張は、白か黒かの単純な二分法に何かと陥りがちな私たちの傾向への戒めとしても実に有効だ。あとがきで、1995年に発生した地下鉄サリン事件に対する「答え」として健全な懐疑主義の必要性を述べる本書の意義は、むしろ今こそ高まっている。この伊勢田著から二十余年経った現在、ネットを中心に猛威を振るう悪質な情報への対処がこれまでにない重要な課題となっているからだ。
この状況に即して新たに現れたのが、昨年刊行された『フェイクニュースを哲学する 何を信じるべきか』(岩波新書・990円)だ。著者の山田圭一は、他人の言っていること、つまり証言を信じるのはそもそもどのくらい合理的なのかという哲学上の古典的な問題から出発して、専門家の役割やマスメディアとネットの比較、そして社会の中で陰謀論がもつ意味、と筆を進める。情報のよしあしについて考えるには、それが生まれる場面だけでなく、どのように伝達・拡散されているのかも理解しておかねばならない、という大事な視点がここにはある。私たちはすべてのことを自らの目で直接確かめるわけにはいかないので、情報が自分の元に届くまでの経路の特徴を知ることが、情報の信頼性を適切に判断するうえでは欠かせないのだ。また、認識論の専門家だけあって、山田は知的な面での個人の自律性や謙虚さ、あるいは真理を気にかける態度といった重要な論点にも言及しており、そこも本書ならではの読みどころとなっている。
ここまで出てきた健全な懐疑主義や知的な自律性・謙虚さに関しては、現役の研究者による著作だけでなく、先人たちの珠玉のエッセーを収めた『教科書名短篇(たんぺん) 科学随筆集』(中央公論新社編、中公文庫・770円)からもヒントが得られる。たとえば寺田寅彦の「科学者とあたま」では、科学者には頭の良さだけでなく、同時に常識を疑い理解を急がない「頭の悪さ」も必要だという逆説が語られていて興味深い。多彩な話題を含む本書では、懐かしくも古びることのない魅力あふれる名編を味わいつつ、現代の情報化社会が抱える広範な課題に取り組むための糸口も見つけられるのではないだろうか。=朝日新聞2025年11月22日掲載