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「裁判官の正体」書評 聖人でも機械でもない仕事ぶり

評者: 有田哲文 / 朝⽇新聞掲載:2025年05月17日
裁判官の正体-最高裁の圧力、人事、報酬、言えない本音 (中公新書ラクレ 839) 著者:井上 薫 出版社:中央公論新社 ジャンル:法律

ISBN: 9784121508393
発売⽇: 2025/03/24
サイズ: 1.5×17.3cm/216p

「裁判官の正体」 [著]井上薫

 仕事にまつわる動詞はいろいろある。かっこいいのは、仕事に「打ち込む」、仕事を「きわめる」あたりか。しかし往々にして仕事は「こなす」ものだし、時間に追われれば「やっつける」ことも。とかく聖人視されがちな裁判官だって似たようなものだと、本書を読んで痛感した。
 裁判官を20年務め、今は弁護士として活動する著者が、実体験と見聞をもとに裁判官の日常を描いた。その仕事の大部分を占めるのが、担当する訴訟の記録を読破することだ。しかし読み込みが不十分で、弁護士にやんわりと注意を受ける裁判官もいる。判決がなかなか書けずに仕事を「ためる」裁判官は、同僚の白い目にさらされる。自分の扱う事件が増えないように、会議で押し付け合うこともある。
 ここまではなるほどなあ、彼らも同じ人間か、ですむ。問題はその先だ。他の公務員同様、上ばかり見るヒラメになりやすい構造があるという。あまりに低い初任給からの出発であり、最高裁判所が全国の裁判官の人事権を握る仕組みである。順調に昇進するためにも、最高裁の意向をくんだ判決を書きたい気持ちになりがちだという。
 それゆえ、そろそろ最高裁の判決が出そうだなというテーマについては、全国の地方裁判所は判決を控えるようになる。上からの「指示待ち」である。違憲訴訟などで過去の判例を覆す画期的判決がニュースになるが、それは保身の土壌に咲いた珍しい花らしい。定年間近になって急に思い切った判決を書く裁判官がいるという指摘には、妙な説得力がある。
 こうした事なかれ主義の延長線上に、冤罪(えんざい)事件があるのだろう。薄い本で文体も軽いが、扱う内容はけっこう重い。一つ印象深かったのが、死刑判決を出す前のある裁判官の話。心理的に不安定になり、食事も取れなくなった。聖人でも機械でもない者たちの一断面であろう。
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いのうえ・かおる 1954年生まれ。弁護士。96年に判事任官、2006年退官。著書に『司法のしゃべりすぎ』など。