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「近代イギリスの動物史」 痛みに共振 感情の変化に迫る 朝日新聞書評から 

評者: 中澤達哉 / 朝⽇新聞掲載:2025年06月07日
近代イギリスの動物史―歴史学のアニマル・ターン― 著者:伊東 剛史 出版社:名古屋大学出版会 ジャンル:歴史・地理

ISBN: 9784815811839
発売⽇: 2025/03/05
サイズ: 15.7×21.7cm/424p

「近代イギリスの動物史」 [著]伊東剛史 

 歴史学は今、転換期の真っ只中(ただなか)にある。その転換の一翼を担うのが、感情史という分野だ。感情史と聞くと、どこか捉えどころがない……と思われるかもしれない。しかし、動物史といえば、どうだろうか。実は、本書で展開される動物史は、感情が社会や文化に与える影響を分析する感情史と表裏一体の関係にある。
 英国を訪れ、リージェンツ・パークにあるロンドン動物園に足を延ばした人もいるだろう。世界中から集められた動物について語る際、従来、イギリス帝国主義研究の観点が重視されてきた。つまり、帝国主義のプロパガンダを伝播(でんぱ)させるメディアとして動物園を捉えてきたのだ。
 だが本書は異なる。帝国の視座を尊重しながらも、帝国研究が等閑視してきた問題点を挙げる。旧来の研究は、背後にある権力関係を読み取ろうとするあまり、帝国主義の解釈に動物を従属させてきたというのだ。いわば「新しい帝国主義」のもとで新たな動物支配が再生産されてしまうことに警鐘を鳴らすのである。
 では、どのように動物を描くことができるだろうか。本書は、動物を歴史の主体に据えようと試みる。ただそれは、声なき動物たちを単に代弁することを意味しない。それでは結局、人間中心主義に陥るからだ。むしろ、人間が自分と同じように動物の痛みに共感する瞬間に着目するのである。本書が描く動物史は、非対称ながら人と動物の間に現れる相互関係性を見逃さないという決意表明にも等しい。
 その一例は、動物虐待防止法制定をめぐる人びとの感情変化。1822年の同法は、家畜への虐待行為が公序良俗に与える悪影響を懸念して制定された。対して、76年の法改正時には、動物に苦痛を与えないことが優先課題となっていた。この間の生体解剖の是非に関する世論を分析し、人が動物の痛みに共感し感情を変化させる瞬間に迫るのである。
 驚きは、1820年代のロンドンの街角で流行(はや)った見世物「幸福な家族」。異種動物が入ったケージの中で猫が子鼠(ねずみ)に授乳する姿を見て、観客の予想は見事に裏切られる。だが、この光景に理想の家族像を見るほど観客は心を動かされた。動物を家族に迎え入れるペット文化が徐々に形作られ、子どもの情操教育として小動物の飼育が推奨されるようになったのも、この頃だ。
 現代に至る動物観の形成を共感の観点から描き出す一方、動物を通して人間社会をも逆照射する著者。人間中心主義の対極に広がるアニマル・ターン(動物論的転回)の地平を垣間見た気がする。
    ◇
いとう・たかし 1975年生まれ。東京外国語大教授(イギリス近代史、科学史、人と動物の関係史)。ロンドン大学で博士号取得。共編著に『痛みと感情のイギリス史』『共感の共同体 感情史の世界をひらく』など。