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「恋恋往時」書評 痛みと裂け目から生まれる言葉

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2025年07月12日
恋恋往時 著者:温 又柔 出版社:集英社 ジャンル:文芸作品

ISBN: 9784087718928
発売⽇: 2025/05/26
サイズ: 13.4×19.4cm/232p

「恋恋往時」 [著]温又柔

 私の名前と母語は私の同一性を支えているが、生まれもったものではない。それらは自分につながる祖先の足跡や時代のなりゆき、親の選択などの諸事情によって、たまたま私に与えられたものだ。場合によってはそのどちらも、ひとつだけとは限らない。本書に収められた四篇(へん)の主人公である月瑜や瑛樹たちは、その複数性のはざまで立ちすくみ、思い惑う。
 日本による台湾の植民地支配。国民党による統治と白色テロ。大陸から来た「外省人」との確執。数世代にわたる家族の記憶と関係性の中に、それらの歴史は織り込まれている。けれども、すべての経験がつまびらかにされることはなく、それぞれの抱える傷や痛みは、家族のやりとりがどの言語でなされるのか、あるいはなされないのかという、発話行為そのものを通して暗示される。
 主人公の視点になりかわって読むという物語の読み方を、私たちはいつ身につけたのだろう。そんな読み方を揺さぶるのは、本書のあちこちに挟(さしはさ)まれる台湾語や中国語の表現だ。それらの言葉につまずき、立ち止まることで、安易な同一化の幻想は破られる。
 そして、本書に登場する「日本人」という呼び名。それは世代を経ても消えない痛みと軋(きし)みを「植民地の子ども」たちに与え、そのことに無自覚な他者たちの名だ。そんな他者の言語を身につけ、いまなおそれを使うという行為の中に、祖父母たちの哀(かな)しみを見てとる月瑜たちのやるせなさ。彼女たちにそのような苦痛を与えた、自分もまた「支配者の子孫」なのだと気づくとき、私は身の置き所を失(な)くす。
 それでも、本書を通して多重奏のように響く彼女たちの言葉は、私の耳に柔らかな余韻を残す。それは私たちの間にある裂け目を思い知らせながら、差異を抱えたままで出会えることを教えてもいる。複数性のはざまから生まれる新しい言葉を、痛みとともに学んでゆくことで。
    ◇
おん・ゆうじゅう 80年、台北市生まれ。作家。『魯肉飯(ロバプン)のさえずり』で織田作之助賞。『祝宴』など。