四兄妹それぞれの視点で描いた青春家族小説
――『9月1日の朝へ』は、穏やかな父親と3人の“母親”がいる高永(たかえい)家の四兄妹が、長い夏休みを経て9月1日を迎えるまでを描いた青春家族小説です。9月1日は18歳以下の自殺者数が突出して多い日と言われますが、その日を題材に書こうと思ったのはなぜですか。
もともと四兄妹が登場する話を書くつもりで、キャラクターを考えていたんですね。担当編集者さんとの最初の打ち合わせが一年前の9月4日で、ニュースや新聞で9月1日問題が取り上げられていたので、その話になって。4人に共通する話題が何かあったほうがいいなと思っていたのと、10代の悩みにフィーチャーするような作品にしたいという思いもあって、9月1日という日を取り上げて書くことにしました。
―― 長男・善羽(よしわ)は筋トレが趣味の中学教師、次男・智親(ともちか)は高3の美容男子、三男・武蔵(むさし)は高1でスカートをはいて進学校に通い、一番如才ない末娘の民(みん)は中2でバスケ部所属。この設定はどのようにして生まれたのでしょうか。
私には息子が2人いるんですが、長男が筋肉男子で、次男が美容男子という時期があったんです。なんだか面白いなと思って、上の2人のキャラクターが最初に決まりました。前から性に揺らぎのある男子をいつか書きたいと思っていたので、三男をそのような設定にして、それを冷静に見ている妹を末っ子にした、という流れです。
―― 性に揺らぎのある三男・武蔵をきっかけに、LGBTQ+についても触れています。
生物学的な性別は男で、男の子として育てられてきたけれど、どちらかというと女の子でいるほうが合っている気がする、と感じている子の心の在り様を書いてみたいと思ったんですよね。武蔵は自分が男か女かまだよくわかっていなくて、それを見極めたくて女の子の格好を試しているところで、そのまま女の子としての道を進むかもしれないし、やっぱり男の子に戻るかもしれない。そんな迷いの時期にいる子として描きました。
3人の“母親”と穏やかな父親
―― “おかーさん”と呼ばれる祖母と、継母の玲子ちゃん、離婚して出て行ったママという3人の“母親”が登場するのもユニークです。
年上の友人から、お母さんが3人いる家族の話を聞いたことがあって。お孫さんのお友達の家族なんですけど、おばあちゃんとお母さんと新しいお母さんがいて、とてもうまくやっていると聞いて、すごく驚いたんですよね。それで、いつか小説に書けたらいいなと思っていたんです。
―― 椰月さんは『みかんファミリー』でも新しい家族の形を描いていましたね。
『みかんファミリー』では、血のつながりのない友達同士を中心とした、2つの三世代家族の共同生活を描きました。家族はもっといろんな形があっていいと思うんですよ。今回の、3人のお母さんみたいな形も全然ありだし、すごくいいなって思います。
―― 母親3人が、子どものために存在するチームとして結託しているのがいいですね。母親たちのインパクトが強いせいか、父親はかなり大人しい印象です。
私が書く小説は、男親があまり出てこないんですよね。自分でも無意識にそうしているみたいで(笑)。今回も父親は存在感薄めだったんですが、4章の後半で、三男の武蔵と会話するシーンを入れました。武蔵はきっとお父さんと話したいんじゃないかと思って、仕事帰りのお父さんと夜道でばったり会うようにしました。
―― いつも穏やかで、口出しせずに子どもたちを見守っているお父さんが、自分の子ども時代の経験を語りながら、人生は短いのだから先延ばしせずやりたいことをやりなさい、とアドバイスするシーンはぐっときました。
夜の力を借りれば、ふだん言えないことを話せるんじゃないかなと。最後のほうで武蔵が父親と二人きりで話すシーンを入れられてよかったです。
思春期は死について考える時期
―― デビュー作の『十二歳』(講談社)をはじめ、思春期の子どもを主人公にした小説を何作も書かれています。思春期特有の不安や揺らぎを椰月さんはどのように捉えていますか。
『十二歳』を書いたときは、自分の12歳の頃を思い出しながら書いたんですが、年を重ねていくと当時の自分がどんどん離れていって、思い出しながら書くのが難しくなってきますね。でも、どんなに時代や環境が変わっても、普遍的な思いみたいなものは変わらないと思っていて。
たとえば次男・智親は、「自分が思っている自分と、他人から見える自分はかなり違う」ということに戸惑っていて、「自分のことを本当にわかってくれる人が、はたしてこの世にいるのだろうか」と悩むのですが、これはどの時代でも多くの子が思い悩むことなんじゃないかなと。
―― 椰月さんご自身はどんな思春期を過ごしましたか。
次男・智親が長男・善羽に対して、「死にたいと考えたことのない人のほうがめずらしいかも」と言って絶句させるシーンがありますが、私も中2の頃に無性に死にたくなった時期がありました。
何か特別な理由があったわけではないんですが、「今、道路に飛び出したら死ぬのかな」とか、「高いビルから飛び降りたら死ぬんだろうな」なんて考えてしまったりして。本気で死にたいわけではないんですけど、死というものにちょっと引き寄せられてしまうというか。当時のその感覚は、すごく覚えているんですよね。
思春期っていろいろと考える時期で、死んだらどうなるのかっていうこともすごく気になっていたので、精神的に死が身近なのかもしれません。年をとってくると、もっとリアルに死を意識するようになりますけど、そういう現実的な、生の隣にある死ではなくて、生の反対にある死についてすごく考える時期なのかなと。
―― そんな時期をどうやって乗り越えたのでしょうか。
これといった解決策もなくて、ただただ時間が過ぎていくのを待ったぐらいですね。大人になると一日なんて一瞬で終わっちゃいますけど、中学生の一日って異常な長さで、こんな日々がまだまだ続くのかと思うとげんなりしました。当時は家族や先生にもムカついていて、もう全員いなくなってほしい!なんて思っていました。思い返すとすごく扱いにくい子どもだった気がしますね。もう二度と中学時代には戻りたくないです。
今が最悪なら、今後は上がるしかない
―― 武蔵が自分をカブトムシにたとえた表現が何とも言い得て妙でした。
知識が豊富で、物事を深く考える武蔵なら、こんな風に考えそうだなと思って書きました。幼虫から蛹(さなぎ)になる時期はとても繊細で、失敗すると蛹化(ようか)不全や羽化不全になって、成虫になれなかったり、蛹になってからもデリケートで、せっかく蛹になったのに死んでしまうケースも多かったり。思春期の繊細さと重なりますよね。
―― 思春期は誰しも通る道ですが、踏み間違えると谷底に落ちてしまうこともあるという危うさと隣り合わせだなと、この作品を読んでいて改めて感じました。思春期ならではの不安や揺らぎを、子どもたち自身はどのようにコントロールしていったらいいと思いますか。
コントロールできないからつらいんでしょうね。あの年代は、どうにもならない苦しさをずっと持っていて、ただその時間をやり過ごすしかないのかもしれません。
―― 妹の民が「同じ場所でじっとり過ごしてると、そのことしか考えられなくなって、底なし沼みたいにずんずんずんずん沈んでいってしまう」と言っていました。目の前の苦しみにしかフォーカスできなくなってしまうと、つらいですよね。
もっと俯瞰で物事を見られるようになると、世界の見え方も変わってくるんですけどね。長男の善羽は筋トレが趣味で、フィジカルを鍛えることで考え込み過ぎないようにしていますが、それもひとつの手だと思います。何かに集中して取り組んでいれば、気が紛れて、余計なことを考えずに済みますから。
―― 作中では、妹・民が学校の図書室で出会い、三男・武蔵が持っていた本として、『14歳からの哲学 考えるための教科書』(池田晶子著、トランスビュー)が引用されています。「言葉」「自分とは誰か」「他人とは何か」「死」「家族」「社会」など、30のテーマを取り上げ、考えることを促す哲学入門書です。なぜこの本を引用されたのですか。
前に買って読んで、家の本棚にあったんですね。妹の民のことを書くときに、14歳という年頃のことを改めて知るためのヒントがあるかもと思って、久しぶりにめくってみました。もうすっかり忘れていたんですが、学校や死についても書かれていて、そうか、こういった哲学に触れたら救われる子もいるかもしれないな、と。ちょっと難しいんですけどね。
―― 民も善羽も、少し読み進めてみたものの「全然意味がわからない」「回りくどい」とこぼします。
でも、こういった本をきっかけにじっくり考えてみることで、立ち止まれることもあるかもなぁと思っています。
―― 星のきらめく夜道を4人が並んで歩く姿が描かれた装画が素敵です。この作品を通じて一番伝えたかったことは何ですか。
『9月1日の朝へ』というタイトルには、夜は必ず明けるんだよ、というメッセージを込めました。
9月1日って、ああ、また学校が始まるのか、と憂鬱になってしまう子も多いと思うし、そこで学校に行かなくなる子もいるでしょうから、親にとってもドキドキする日だと思うんです。でも、若いときに命を絶つというのは本当に惜しい。今が最悪なのであれば、その後は上がるしかないんだから、最悪なときに死ぬ必要なんてまったくないんです。
大人はよく「これからもっと楽しいことがいっぱいあるよ」「もっと世界が広がるよ」などと言いますが、それって大人が経験してきたことだから言っているんですよね。思春期のような苦しい時期はずっと続くわけじゃない、ということを、大人は知っているわけです。だから、大人の言うことを少し信じてもらって、死にたいと思っても、もうちょっと生きてみてほしいなと。学校に行かなくてもいいので、どうか命を絶つという選択だけはしないでほしいと願っています。