寝具店で2年間働いた経験が小説に
―― 寝具店に勤めていたのはいつ頃のことですか。
2020年の秋から約2年間働いていました。私はデビュー後ずっと専業作家として活動してきたんですが、コロナ禍に差し掛かった頃、それまで進めていた小説の仕事をメール一通で反故にされ、廃業を考えるところまで追い込まれてしまったんです。一時はメンタルのコントロールがまったく効かなくなって、食べられず、眠れず、動けず……まるで自分が知らない誰かになってしまったようでした。コロナ関連で不安を煽るようなニュースもいろいろあった時期で、一人暮らしをしていたこともあってか他人事として考えられず、ニュースもあまり見られなくなってしまって。
でも、生活のために稼がないといけないので、這うようにしてバイトの面接に行ったんです。最初にデパートにある手芸用品店で半年間バイトして、次にショッピングモール内の寝具店でほぼフルタイムのパートを始めました。
鬱になったときは、元の自分に戻ろうとするから失敗するのであって、新しい自分になればいいんだ、というコメントを以前どなたかのXの投稿で見たんですけど、私はまさに、新しい自分になることに成功したんだと思います。副業として週に何日か3、4時間働くとかではなくて、月の半分を1日8時間以上働いていたんですが、手芸用品店も寝具店すごく楽しくて、そこで働くうちに自分を取り戻していくことができました。
手芸用品店での経験は『ヨルノヒカリ』(中央公論新社)に、寝具店での経験は『宇宙の片すみで眠る方法』になりました。
――『宇宙の片すみで眠る方法』の主な舞台はデパートの寝具売り場。さまざまなお客様の睡眠の悩みを主人公の依里が丁寧に聞き取り、対応していきます。接客シーンはリアリティがありますね。
私自身、寝具店ではお客様とじっくり話しながら接客していたので、そのときの経験をもとに描いています。もちろんお客様の話をそのまま小説に使ったわけではないんですが、働きながら、よくあるお客様の悩みや要望をノートに書き留めていって、それぞれの睡眠の悩みに寄り添うようにストーリーを作っていきました。
寝具は自分に合ったものを選ぼう
―― 序盤から「枕の寿命は3年」という豆知識が出てきて、ハッとさせられました。
枕はどんなに高価なものであっても、毎日使ううちに中身が潰れてしまうので、3年ぐらいで買い替えた方がいいんですよ。私はオーダーメイドの枕を使っているんですが、1年に1回は中身を変えて、ちょうどいい高さを保つようにしています。
寝具店で働いていた頃は、枕の高さと素材を見極めるのが得意でした。枕を見に来たお客様はほぼ売り逃さない自信があります。何なら小説を書くよりも枕を作る方が得意かもしれません(笑)。
―― 高さや素材も重要なんですね。
枕で大事なのは頭ではなくて首なんです。首の部分が浮いていると、後頭部の一番出っ張っているところで重たい頭を支えることになってしまうので、頭痛や肩こりにつながりやすいんですね。だから枕を買い替えるときは、自分の頭のサイズや首の太さに合った高さや素材を選ぶことが大切です。
―― 自分に合ったものを選ぶという考え方は、マットレスでも同じですよね。
有名アスリート愛用の高級マットレスがほしいという人は多いんですが、アスリートと一般の人とでは体格がまったく違いますよね。いくら高品質のものでも、体に合わないものを使っていては意味がありません。腰痛のある人はマットレスを、首が痛い人は枕を見直すことをおすすめします。
―― 小説の中で「雲の上にいるような寝心地」「動物と触れ合っているかのようなリラックス効果」と紹介されていたムートンシーツ、あまりに高価で購入は難しそうですが、一度触ってみたいと思いました。
ムートンシーツは羊の毛皮で作られた毛足の長いシーツで、冬はあたたかいんですが、蒸れにくく湿度を低く保てるので、実は夏にも使えるんです。国産のものはそれなりに高価ですが、買う価値はありますよ。
寝具って、1日の4分の1から3分の1くらい使うものじゃないですか。なのに車や家と違って、リーズナブルなもので済まそうとする人が多いんですよね。5万円のマットレスを20年使っている、という人も結構いるんですけど、計算すると、1日7円もしない寝具を20年間使い続けていることになります。それで肩こりや腰痛に悩まされて、マッサージに通っていたりする。そのお金を寝具に使えば、マッサージに行く回数を減らせるかもしれませんよね。あ、なんだか寝具店店員みたいになってしまいました(笑)。
女性が一人で強く生きていくということ
―― 快眠のためのノウハウをたっぷりと詰め込みつつ、一人の女性の喪失と再生を描いた物語としても非常に読みごたえのある作品となっています。主人公の依里は、婚約者の直樹を事故で失うまでは「直樹がすべて」で、彼の望むように生きてきたという29歳の女性です。
依里は真面目で頭のいい子として描きました。わりといい家でしっかり者の長女として育って、大学で直樹と出会うんですね。彼女には、留学して考古学の道に進みたいという夢がありました。直樹と出会っていなければその夢に向かって突き進んで、仕事で成果を出していくという人生を歩んだ可能性もあったんですけど、彼女が優先したのは直樹との暮らしで。だからこそ彼を失ったとき、すべてを失ったような絶望に見舞われてしまいます。
―― 依里は自分のことなのに自分で決められない、主体性に欠ける人物として描かれています。
意識的であれ無意識であれ、男性に合わせて生きている女性って多いと思うんです。親世代に男を立てるという感覚がいまだに残っているせいか、独身のうちは親に従い、結婚したら夫に従うみたいな、自分に決定権が与えられてない女性が日本には多いのかなと。依里もまさにそんな女性です。
女性は搾取されやすいし、深く考えず従っていた方が楽っていうのもあるんでしょうね。男の人に尽くしていく人生というのも選択肢としてありだとは思うし、依里だって直樹が生きていれば、自分が搾取されているなんてまったく気づかないまま、直樹の稼ぎで買ったマイホームで、子育てしながら楽しく暮らしていたかもしれません。そういう幸せを否定するわけではないんですけど、そういう生き方に危うさは感じます。
――『若葉荘の暮らし』(小学館)では40歳以上独身女性限定のシェアハウス、『ヨルノヒカリ』や『世界のすべて』(光文社)ではアロマンティック・アセクシャルの人の生きる道、『アサイラム』(KADOKAWA)では性加害の被害者たちが暮らす街を描いてきた畑野さんですが、今回『宇宙の片すみで眠る方法』で一番描きたかったのはどんなことですか。
ここ何年かの作品で私は、血のつながりも法律的な関係もない他人同士が、同じ家や同じ店で一緒に生きていくという話を書いてきたんですが、この作品では、女性が一人で生きていく道を見つける、ということを書きたいと思いました。
今の時代、一緒に暮らす人がほしくても、一人で生きていくしかない人も多いと思うんです。もちろん、自ら望んで一人で生きることを選んでいる人もいるし、私自身も結婚せず、小説で稼ぐ道を歩んでいます。でも、女性が一人で不安な暮らしをしていると、周囲から「結婚すればいいじゃん」「相手探しなよ」と言われることが多いんですよ。私も30代の終わり頃は「今ならまだ子ども産めるよ」なんてよく言われたんです。ただ、結婚さえすれば絶対安泰かというと、そんなこともなくて、結婚相手が病気や怪我に見舞われるかもしれないし、子どもだって健康に育っていくという保証はないですよね。
安易に男性に頼るのではなく、自分で稼いで、一人で強く生きていく。それは別に不可能なことではないんだよ、と伝えたい。そんな思いで書いた作品です。
よりよい眠りを得るためには
―― 物語の終盤、依里が「寝具店の店員としては別のものをオススメしたくなる寝具」の揃った環境で、「人生で一番と思えるくらい、深く眠れた」というシーンがありました。
最近、本や雑誌、情報番組などでも睡眠に関する特集ってすごく多くて、いろいろなところでどうすればより質の高い睡眠が得られるかが紹介されていますよね。寝具選びのコツとか、睡眠の質を上げる食べ物や飲み物、寝る前の行動など、ノウハウはいろいろとありますけど、やっぱり一番は精神的にリラックスできているかどうか、だと思うんです。
超ブラック企業に勤めていて、ストレスだらけの毎日で、彼氏とももめてて……みたいな状況では、いくら快眠のコツを実践したところで、いい眠りなんて得られるわけがありません。自分にとって安心できる人が周りにいるか、安心できる環境で生きているか、ということが第一であって、寝具選びみたいなのはその先のことなんじゃないかなと。
たとえば、寝る前のカフェイン摂取はあまり勧められることではないんですが、コーヒーを飲むことでリラックスできるのであれば、飲んだっていい。苦手なハーブティーを飲んでストレスを感じるくらいなら、好きなコーヒーの香りでリラックスした方がいいじゃないですか。寝室は真っ暗にすることが推奨されていますが、それだって暗いと気持ちが落ち着かないのであれば、無理に暗くする必要はありません。あくまでも自分にとってリラックスできる環境を整えることが大事だと思います。
―― 寺地はるなさんが帯で「よりよい眠りを得たいと願うことは、そのまま、よりよく生きたいという私たちの、切実な願いなのだ」とコメントされていましたね。
睡眠時間をろくにとれない生活をしていて、その中で眠りの質を上げたいと言われても、無理なんです。まずはしっかり6時間、できれば7時間半は睡眠時間を確保できるよう、生活を見直してみてほしいですね。眠れない日々を送っている人は、この小説の主人公の依里のように今一度自分を見つめ直して、誰といたいのか、どう生きていきたいのかをじっくり考えてみるところから始めてもいいと思います。