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「抱擁」書評 生者を取り囲む死者たちの気配

評者: 青山七恵 / 朝⽇新聞掲載:2026年03月14日
抱擁 著者:アン・マイクルズ 出版社:早川書房 ジャンル:文芸作品

ISBN: 9784152104953
発売⽇: 2026/01/21
サイズ: 13.7×19.4cm/216p

「抱擁」 [著]アン・マイクルズ

 ヨーロッパ各地を舞台に、一家族に流れた百二十年近くの長い年月を描く物語。大きな時の流れを途切れなく一方向に描く大長編ではなく、本書は年代も順不同に中心となる人物が移り変わっていく連作短編集に近い形式をとる。過去と現在が混濁する語りに読み始めは戸惑ったものの、茫漠(ぼうばく)とした視界から情景や感情がふと切り立って迫ってくる瞬間が何度もあり、その静かな迫力に胸をつかれた。
 第一次世界大戦中フランスの戦場で九死に一生を得たジョンとその妻ヘレナから始まる家族四世代に加え、彼らと何らかの接点を持つ人物たちの物語を繫(つな)ぐのは、記憶と感慨、答えのない問いや言葉になりそこねた祈りのようなものだ。月日を経て世を去っていくほとんどの登場人物の死に際は語られないが、彼らは完全に消え失せたわけではない。戦場で深く傷つき帰還する者もそれを待つ者も、生者たちは常に死者たちの濃密な気配のなかで生きている。わざと間違えられたセーターの編み目、写真に写り込む死者たち、飾られ続けるオレンジの絵。生活のごくささいな一部にかつてそこにいた誰かの祈りが宿り、生者たちを密(ひそ)やかに照らす瞬間を、著者は詩的な感覚で捉え読み手の時間のなかにそっと放ってくれる。
 作中、何度か繰り返される雪の場面が示唆的だ。この白く儚(はかな)いのに降り積もると生命を脅かすほどの物質は、蒸発して空気中に姿を消した水が、再び私たちの目に見える形を得たものである。同じように、普段は不可視ながら生者には窺(うかが)い知れない自然の采配でほんのひととき現出する死者たちの徴(しるし)と、脈絡のない予感。それらに導かれ、いくつもの偶然が重なって出会った人間たちが、支えあい、抱きあい、その魂の一端をそっと握りあっては、別れゆく。そんな人間の営みは文学のなかで書き尽くされてきたはずなのに、まだこんなにも新鮮で、息を呑(の)むほどの驚きに溢(あふ)れている。
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Anne Michaels 1958年生まれ。カナダの詩人、作家。本書はブッカー賞候補作。著書に『儚い光』など。
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黒原敏行訳